牧師は良い説教ができるように日々研鑽を積まなければなりません。ここで良い説教とは何かということが問題となります。私は洗礼を受けてから30年以上を信徒として過ごし、7年近くを教職として過ごしています。
信徒として礼拝に参加していた時は心に響く説教を聞きたいと願っていました。心を揺さぶられ、ある時は笑い、ある時は涙するような説教です。それによって心が満たされることを願っていました。
一方で、牧師として私が神学校や説教塾で学んだことや学びつつあることは、説教は神の言葉を正しく伝えることが大切だということです。カール・バルトは、山上の説教の言葉をイエス様のメッセージとしてそのまま説教し、この言葉を語られた主そのものと切り離すことはありませんでした。説教について、ルードルフ・ボーレンという神学者は「聞き手は、聖書のテキストそのものがそこにまきこまれているような出来事の中に、直ちにひきずりこまれるのである」と説いています(ボーレン『説教学』)。説教において最終的に問われるのは、この出来事の言葉を語ることができているかどうかということです。そして説教も神と人との関係性の中にあることを意識して聞くことによって、人が語る言葉が神の言葉となります。説教を通して神が臨在していることを感じ、神を賛美するように導かれるよう願いを合わせながら神を礼拝したいと思います。