「神の力を受ける」(2019年6月9日礼拝説教)

エレミヤ書31:31~34
使徒言行録2:1~21

 イエス様が天に昇られてから10日目。復活の日から数えると50日目の出来事です。イエス様が「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と言われた「約束されたもの」=天に昇られたイエス・キリストの霊であられる聖霊が弟子たちに降されるという聖霊降臨の出来事が遂に起こりました。
 今日、この日をペンテコステ、と呼ぶのですが、ペンテコステというのはギリシア語で50という数を表す言葉です。これはイエス様の復活から数えて50日目という意味であり、またユダヤ教との関連から別の意味も含まれています。
「五旬祭の日が来て」と今日の御言葉のはじめに語られていますが、五旬祭というのは、ユダヤ教の三大祭の中のひとつで、レビ記23章に書かれている麦の収穫の祭の日のことです。その日の数え方は過越祭の安息日の翌日から数えて50日目。過越祭の安息日の翌日と言いますと、イエス様が十字架に架かられたのは過越祭の始まる直前、金曜日でした。その次の日が土曜日でユダヤ教の安息日。その翌日と言えば、日曜日。イエス様の復活された日と重なります。その日から数えて50日目に聖霊降臨が起こったのです。
また、この日は、ユダヤ教ではモーセが律法をシナイ山で主なる神から与えられた日であるとも言われていました。麦の収穫の喜びの祭の日と、律法が与えられた記念の日に、父の約束された聖霊降臨の出来事が起こったのです。
 律法が与えられた記念日にこのことが起こったということは、大きな意味があると思われます。旧約聖書に於いては、モーセを通して律法が与えられ、それが神と民との間で取り交わされた契約でした。十戒は板に刻まれました。その主なる神からえられた律法を守る、という誓約をして、イスラエルの民は神の民となったのです。しかし今日お読みした旧約朗読エレミヤ書31章では、預言者エレミヤによって「律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と、律法の板ではなく、人の心に律法、神の掟を授けるという、「新しい契約」の時が来るという預言の言葉が語られていました。
聖霊降臨とは、イエス様の誕生、ご生涯、そして十字架と復活、昇天、聖霊降臨というイエス・キリストを通して現された神の救いの出来事、神の御計画が大きな到達点を迎えた出来事であり、イエス様が最後の晩餐の席で「私の血による新しい契約」を語られたことの具体的な実現として、預言者エレミヤの預言した「新しい契約」という出来事、神と人間との間に、板に記された律法による契約を超えた「新しい契約」が、神と民との間に実現した日。信仰者ひとりひとりに聖霊が与えられて、その心に文字によるのではなく、神がダイレクトにイエス・キリストを信じる人の内に宿って下さり、神の霊によって神の掟が刻まれた日なのです。

「聖霊」とは、イエス様が「去って行かれた後」、イエス様は「あなたがたをみなしごにはしておかない」と言われて、ひとりひとりに降されたイエス・キリストの霊。そのお方が、遂に弟子たちの上に降されたのです。また、復活のキリストは、使徒言行録1章で、天に昇られる前、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を授けられるからである」と言われました。ペンテコステの出来事というのは、「水の洗礼」ではなく、イエス様の語られた、イエス・キリストご自身が与えられる「聖霊の洗礼」という出来事が実現した日なのです。
 
 五旬祭のその日、弟子たちは一つになって集まっていました。120人ほどが、心を合わせて熱心にひとつになって祈っていたのです。祈りのあるところに神は働かれます。
突然、激しい風が吹いて来るような音が、天から聞こえました。激しい風、ビュービューという音というより、ごーーっという音でしょうか。家中が響くほどの音。ある翻訳では「烈風吹きすさぶがごとき音響が天から湧き起こって、彼らが座っていた家全体を満たした」のです。すると、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。その音を聞いて、エルサレムに住む、ユダヤ人、またユダヤ教への改宗者の人たちが、驚いて、その家に入って来ました。

それにしても何と不思議な出来事なのでしょう。これをどのようにイメージしたら良いのでしょう。以前、MM姉妹の牧師でいらっしゃったお父様が描かれた、テーブルを囲む弟子たちひとりひとりの頭に、炎のような形をした赤いもの=舌がひとりひとりの頭の上に乗っているという、独特なペンテコステの絵を見せていただいたことがあるのですが、炎のような舌がひとりひとりの上にとどまった、という聖書に書かれているとおりのことを絵にするとこういうことだったのか、と思わされるものでした。
すると一同は聖霊に満たされ=イエス様の霊でいっぱいになって、聖霊の語らせるままに、他の国の言葉で話しだしたのです。話し出したとありますが、これはぺちゃくちゃ勝手に話しているというのではなく、11節で驚いて家に入ってきたユダヤ人たちが聞いたことによれば「神の偉大な業を語っていた」と言うのです。
この聖霊に満たされて、聖霊の語らせるままに、弟子たちが神の偉大な業を語っていたという言葉、これを聖書では「異言」と呼んでいます。
私は異言については、これまで殆ど説教では語っていないと思いますし、そんな言葉聞いたことが無い、馴染みのない方も多くおられるかも知れません。ギリシア語の原語では、グロッサ、英語ではトング。いずれも舌、という言葉で語られています。炎のような「舌」ですね。
「異言」という言葉が聖書の中に出てくるのは、ルカの書いた「使徒言行録」に二回、その他は、パウロがコリントの信徒への手紙一に於いてのみ、22回語られています。
キリスト教の三大祭とは、クリスマス=神が人となられた出来事、イースター=イエス・キリストの死からの復活の出来事、これらふたつも、途轍もなく不思議な出来事ですが、ふたつとも、イエス・キリストに於ける出来事で、私たちはその事柄を宣教の言葉として、聞くことにのみ徹する、過去に一度起きた出来事でした。
しかし、ペンテコステは、私たち人間、信徒たちが直接関わり得る出来事であり、現在もこの出来事というのは、「風は思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)とイエス様は言われましたが、いつでもどこでも起こり得る、現在進行形の出来事と言っても良いように思います。  
現在「異言を語る」ということを、強調する方々や教会は世界中に多くあります。そのような教会が成長しているという事実もあります。
クリスマス、イースター共に、イエス・キリストに於ける神秘の出来事ですが、ペンテコステは神が人間に為してくださる神秘です。私たちも関わり得る神の神秘です。

しかしその様子をただ「伝え聞く」ことでは、霊的な熱狂主義、気味の悪いものと退けられ易く、また、それは古の科学的見地の無い時代の出来事と片付けたり、パウロは「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」(一コリ13:8)と語ったことの文脈を読み間違いをして、今はもう異言など無いと言ったりする方々もおられます。そのために、ペンテコステというと、キリスト教会の中ではクリスマス、イースターに比べて重んじられないと言いますか、人間が関わる、あまりにも不思議な、非現実的な出来事に、正確にこの出来事を語りえないままに、この御言葉の中で語られているまま、聖霊は「火」や「風」「鳩」のようなものと言われることに終始したり、「教会の誕生日」として語られています。それらは正しい認識ですが、この出来事自体をよく知らなければ、キリスト教信仰というものを曖昧に、人間の知恵の範疇でのみで捉えることになりましょう。
今日、聖霊なる神のこと、異言のことなどについて、語りつくすことなど出来ませんが、この先、使徒言行録やパウロ書簡を読み進む中で、折に触れてお話をさせていただきたいと考えています。

「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」て、エルサレムに住む、あらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人たちが、驚いて、弟子たちの集まっている家に入ってきました。そこで見て、直接聞いたのは、イエス様の弟子たちが、自分たちの生まれ故郷の言葉で語っている神を讃美する言葉でした。
ユダヤ人、イスラエルの民というのは、バビロン捕囚以来、一時を除いて、自分たちの国を持たず、各地に離散をしていました。この時集ってきていたユダヤ人たちというのは、皆、生まれ故郷はエルサレムではない土地であった、所謂ディアスポラ・離散したユダヤ人と呼ばれる人たちです。その生まれた地域というのは、9節以降の記述によれば、現在のイラン、イラク、トルコ、エジプト、地中海の島々、またローマから来た人々がおりました。これらはエルサレムを中心とした、非常に広い地域、中近東全般から、ローマに至る地域です。この広大な地域には、現在に至るまで、さまざまな言語があります。そして驚いて集まって来た人たちの生まれ故郷の言葉、例えば、コプト語、アラビア語、トルコ語、その他の言葉を、イエス様の故郷であるガリラヤ出身の弟子たち、その言葉を知る由も無いような人たちが、語り、神を讃美していたのです。
何と不思議なことなのでしょうか。神様はどうしてこのような不思議なことをなさるのでしょうか。
そこに集まり、「他国の言葉」=異言で語っていた弟子たちは、自分がこの時神を讃美していた「他国の言葉」を、自分の口から語りながらも、知る人たちではありませんでした。私が突然、ここで全く知らないフランス語を流暢に話して神を讃美する、そのようなことが起こったのです。
少し、説明を加えさせていただきますと、聖書で語られる異言というのは、「他国の言葉」を語りだすことだけではありません。パウロは「天使たちの異言」という言葉を使いますが、どこの国の言葉でもない異言もあります。
いずれにせよ、その不思議な業は神からのものでした。イエス様の十字架と復活、昇天の出来事を通して、自分の罪に打ち砕かれ、身を低くしてひたすら祈る弟子たちに、神が新しい言葉を語る舌を与えるという不思議な御業が起こったのです。
それを目の当たりにした人々は驚き、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける人もおりました。120人の人たちが、さまざまな言葉で神に祈っている姿、それはある種、酔っ払うような熱狂的な姿に見えたということなのでしょう。

ペトロと11人も同様の姿だったのでしょう。しかし、ペトロたちは、人の目には熱狂的に酔っ払うような姿で他国の言葉・異言で神を讃美していましたが、人々の嘲りの言葉を耳にして立ち上がりました。
異言を語るというのは、神の臨在に圧倒されて、我を失うほどの状態になることも時にありましょうが、聖霊を与えられた人間の理性を損なうものではありません。いえ、寧ろ、人間の理性を知恵を強めるものであると、私は理解しています。イエス・キリストの霊が私たちのうちにあり、私たちに力を与えてくださり、強めて下さるのですから。
イエス・キリストは、聖霊なる神は、人間をおかしな狂信的な者になさることなどありません。もし、理性を失った狂信的な状態になるのだとしたら、それは聖霊の働きではないのかも知れない。霊の問題というのは、非常にデリケートで、慎重に取り扱わなければならないことです。
私たちたちに何か不思議な業が現されたとして、それがイエス・キリストの十字架と復活こそが命である、救いであるということに心が開かれることになるのならば、そのことを心に深く刻むことになるならば、それは聖霊の働きでありましょう。イエス様はヨハネによる福音書15章26節で次のように言われました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」と。エレミヤの語った「新しい契約」とは、イエス様の与えてくださった体と血によって救われた者が、聖霊を与えられ、イエス・キリストを、その救いを各々が心に刻むこと、イエス・キリストを信じる信仰に心が開かれるということが具体的な現れであったと私は理解しています。

酔っているように見えたペトロたちは、そのような姿を一変させて立ち上がり、声を張り上げて話し始めました。「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」と。さらに、ペトロはヨエル書の御言葉を引用して語り始めるのです。
ガリラヤの漁師として生きて来て、イエス様の弟子となったペトロ、イエス様が逮捕された時、見捨てて逃げたペトロ、イエス様を三度「知らない」と言って逃げたペトロ、そのペトロが、聖霊降臨の出来事を受けて、立ち上がり、大胆に神の言葉の解き明かしを語り始めたのです。それは、預言者ヨエルの言葉で、「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」、更に「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と言う、今この時こそ、旧約聖書の預言が成就された時であるという宣言でありました。そして、続いて、イエス・キリストこそ、旧約聖書に於いて預言をされていた救い主である、ということを大胆に人々の前で説教をしたのです。それは、神の知恵に満ちた、聖書の解き明かしの言葉であり、旧約聖書全体は、すべてイエス・キリストが救い主であることを証しするものであるという、神の知恵に満ちた聖書の解き明かしの説教でありました。
聖霊を受けたペトロは、最早、イエス様の直接の弟子として、たくさんの過ちや勇み足のようなことをしてきた人とは別人のように、神の力に満ちて、知恵の言葉を語り始めたのです。

聖霊を受けるということ、それは、十字架の主イエス・キリストが私たちのうちに住んでくださり、私たちを絶えず励まし、力を与え、語る言葉にさえ、助けを与えてくださる出来事です。弱い者は強くされ、低くされている者は高められるという、神の御心が、ひとりひとりのうちに実現する事柄なのです。そして、この先使徒言行録では、聖霊を受けた弟子たちの働きが語られ続けます。

それが何故、炎のような舌によって新しい言葉を語るようにされることによって現されたのか。神の領域のことですので、はっきり申し上げられませんが、イエス・キリストは神の言葉であられたということとの関連は大きいことでしょう。
キリスト教信仰は、言葉による信仰です。神の言葉で、そのものであられるイエス・キリストの霊・聖霊なる神が、ひとりひとりの上に降された時、旧約聖書創世記の中のバベルの塔の物語に於いて、人間の罪によってばらばらにされた言葉が、主なる神にあって和解の言葉として、そこにやってきた人たちの故郷の言葉、分かる言葉となった。そして、新しい言葉という力を受けた弟子たちは、この後、言葉によって宣教を始めて行くのです。イエス・キリストの十字架と復活、救いの出来事を、宣べ伝え始めるのです。宣教、伝道は、イエス・キリストの十字架と復活という福音の言葉を伝えることによって為されて行くのです。新しい言葉を与える舌、これは神の言葉を語る宣教の言葉を語る舌であったのです。

そのための神の力を、新しい言葉を、弟子たちは受けました。ペンテコステを境に、イエス・キリストの成し遂げられた救いの御業は、神の言葉を宣べ伝えるということに於いて弟子たちに受け継がれてゆくことになります。
私たちの教会も、この時始まった使徒たちの働きの中に置かれている群です。神の力=聖霊の力を受けて、大胆に御言葉を宣べ伝える群として、これからも主に用いられる教会として成長させていただきたいと強く願っています。