4月21日礼拝説教「死を越える命」

聖書 ヨハネによる福音書10章11~18節
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)

羊と羊飼いの絵

私が住んでいる牧師館の壁には渡邊総一さんという画家の書いた「イエス様と羊たちの絵」が飾ってあります。神学生時代に学校で渡辺さんの聖書画展が開かれて手伝いをしたときに見つけて購入したものです。画家自らが複製したレプリカですので鉛筆のタッチまで伝わってきます。その絵のイエス様は羊たちを見ています。羊たちはイエス様を見上げています。遠くには狼が数頭描かれています。これは詩編23篇1節「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」を題材にした絵です。私が座っているところの正面に飾っているので毎日この絵を眺めています。この絵からはイエス様のやさしさと、羊たちとイエス様との絆の深さが伝わってきます。

良い羊飼いのイエス様

本日与えられた御言葉はヨハネによる福音書10章11節から18節で、ここにはイエス様がご自分を「良い羊飼い」と言われている箇所です。

10:11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

私にとって羊飼いのイメージは牧羊犬と一緒になって羊たちの世話をする人です。羊は群れで行動します。群れからはぐれる羊もいてその羊を探すのも羊飼いの仕事です。羊たちは草を食べながら自分がどこにいるか分らないところに行ってしまう性質を持っているそうです。しかも狼などの獣に対して何の防御の手段も持っていないため、簡単に獣の餌食になるらしいのです。屠られる時には声を出さないとも言われています。狼にとっては狙いやすい動物です。

イエス様は良い羊飼いとしてそのような羊を命懸けで守り、場合によっては羊を助けるために命を捨てると言われます。「良い羊飼い」は羊にとって一番の安心です。ちょうど詩編23編の「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という感じで、羊たちは何の憂いもなく青草を食べ、水辺で憩うことができるでしょう。

10:12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――

雇われている人は羊の所有者から賃金をもらって羊の世話をします。雇われている人にとって、羊は愛する対象ではなく、賃金を得るための手段です。羊を守るために命を懸けるようなことはしません。羊の所有者に対しての責任を果たすために羊の世話をするでしょうが、命の危険を感じたら羊を見捨てて逃げるでしょう。命懸けで羊を守ることはしません。羊たちは狼に食われ、群れは散り散りになります。

10:14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

私はこの言葉に渡邊総一さんが描いた詩編23篇の絵を思い浮かべます。互いに互いを見ている。そこには信頼があります。羊たちには平安があります。遠くに狼が見えていても羊たちは恐れることはありません。「良い羊飼い」のイエス様がそばにいてくださって守ってくださるからです。

10:15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

イエス様は父なる神とご自分とがお互いに良く知っているということを引き合いにして自分と羊との関係を示されました。父と子の関係を「知っている」と表現していますが、父と子はまったく同じ意思を持っておられますからひとつであるというほどに互いを知っています。この父なる神と子なるイエス様とのきずなとイエス様と羊である私たちとのきずなは同じであることを示されたのです。そのくらい羊飼いと羊との結びつきは強いのです。たとえ羊である私たちがイエス様を忘れたり遠ざけたりしてもイエス様は私たちを守ってくださいます。このことをイエス様は私たちにお示しになっておられます。イエス様は再び「わたしは羊のために命を捨てる」と宣言されます。きっと私たちが忘れても、イエス様は何度でもこのことを語ってくださいます。

10:16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

「囲いに入っていない羊」とはイエス様を知らず、神さまから離れている人たちのことです。イエス様はそのような人たちのことを心に留めておられます。もしイエス様の言葉を聞いて受け入れるならば、イエス様の声が届くでしょう。そしてその声を聞いた人たちはイエス様の所に来ます。なぜならそこが安全で安心の場所だからです。

10:17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。

ギリシア語原典の語順通りに訳すと「このことの故に、父は私を愛する。すなわち私は再び受けるために私の命を捨てる」となります。文の最初に「このことの故に」という言葉がありますから、イエス様が羊たちのために命を捨てるというイエス様の言葉と行いのために、父なる神はイエス様を愛するという意味になります。父はイエス様に命を捨てること、再び受けることの権威を与えてくださるのです。

10:18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

これもギリシア語原典になるべく忠実に訳しますと「誰も私から命を奪う者はいない。そうではなく、私は自分自身で命を捨てる。私はそれを捨てる権威を持ち、また再びそれを受け取る権威を持つ。私は私の父からこの命令を受け取った。」というようになります。すなわちイエス様は父なる神さまからご自分の命を捨てることも再び受けることもおできになる権威を持っておられるということです。

イエス様の復活は父なる神さまが独り子イエス様を愛しているから、神さまがよみがえらせたのですが、それは神さまがよみがえりの権威をイエス様にお与えになったということだ、ということがイエス様の言葉によって示されているのです。

人としてのイエス様

これが本日与えられた御言葉です。そこで次のような疑問が浮かびます。イエス様は神と等しいものであることに固執せずに人間と同じものになられた(フィリピ2:6-7)わけですから、ご自分で命を捨てたり受けたりできるのだろうかという疑問です。イエス様は神さまだからそんなことは当たり前、と思うことも間違いではないと思います。しかしここでは人間イエス様という視点で考えてみたいと思うのです。私たち人間と同じであれば自分で命を捨てることも再び受けることもできないのではないか、こう考えることは人間とは何者かということを考えることに通じます。

私はこのことについてこんなふうな思いが与えられました。実は、人間も命は永遠なのです。一般的には永遠の命という言葉は理解することができません。「人は母から生まれ、時が経てば死ぬ。それで終わり」。こう考えるのが常識的な考えかもしれません。しかしそ聖書はそれとは違うことを教えています。神さまは私たちに永遠の命を与えてくださっています。人には永遠の命が与えられ、イエス様が再び来られる時に朽ちることのない霊の体としてよみがえるのです。

このように考えるならば、イエス様が「命を捨て、再び命を受ける」と言われた言葉はイエス様だけのものではなく、私たちのものでもあることが分かります。イエス様は人となられても父なる神との愛の交わりの中に完全な状態でおられました。だから父なる神の意志とイエス様の意志は同じなのです。私たちはそこまでの完全さはありませんが、それでも神さまとの愛の交わりの中にあります。そして永遠の命をいただいています。ですから私たちも再び命を受ける希望を持つことができます。

主を賛美して生きる

週報の『牧師室から』に44歳の若さで天に召された原崎百子さんというキリスト者が書いた詩を紹介しました。「わが礼拝」と題された詩です。

わがうめきよ わが賛美の歌となれ
わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ
わが涙よ わが歌となれ 主をほめまつるわが歌となれ

わが病む肉体から発する すべての吐息よ 呼吸困難よ 咳よ
主を賛美せよ

わが熱よ 汗よ わが息よ
最後まで 主をほめたたえてあれ

原崎さんはきっと最後まで主を賛美して天に召されていったと思います。私はこの詩に他者のために生きることの究極の姿を感じました。それは神さまのために生きるということです。病床で、苦しみの中で、主なる神を賛美するのはやせ我慢ではないということを私は感じました。原崎さんは命が死で終わるのではなく神の御許にいて命が続くことを信じているから、今は息をすることもできないくらい苦しいけれども、イエス様が一緒にいて守っていてくださることを信じていて、やがて来る平安を信じていて、それを待ち望んでいる。今は苦しいけれど必ず平安が訪れるという希望があるから、このような詩を詠むことができたのだと思ったのです。

命は神の許に

命は自分のものではありません。神さまが私たちに与えてくださっています。私たちの命は死によって終わり、何もなくなるのではなく、神さまの許にあります。そして時が来てイエス様が再び来られる時、私たちは霊の体をもらってよみがえるのです。このことを信じて苦しいことがあっても諦めずに生きていきましょう。御国への道をご一緒に歩んでまいりましょう。この旅にはイエス様が一緒にいてくださいます。