「茨の冠―十字架への道」(2020年3月29日礼拝説教)

イザヤ書53:6~7
ヨハネによる福音書18:38b~19:16a

 人は、世の大きなうねりに流されて、自律的な判断をしないままに翻弄をされて、いつしか真理から離れてしまう、そのようなことがあるのではないでしょうか。

「スケープゴート」という言葉があります。もともとの意味は、旧約聖書レビ記16章に記されている年に一度の「大贖罪日」に大祭司が神殿で贖いの儀式を済ませた後、一匹の雄山羊の頭に大祭司が両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪と背き告白して、罪のすべてを雄山羊の頭に移して、雄山羊がすべての罪責を背負って荒れ野の奥へ追いやられる、一匹で見捨てられて野獣に襲われるか飢え死にをすることになる・・・それがスケープゴートという言葉の原意です。 
それから派生して、この言葉は、世の中が不安な時、人の心が荒ぶ時、不満や憎悪、責任を、直接的原因となるものや人に向けるのではなく、他の対象に転嫁することで、収拾を図る―その不満、憎悪、責任を転嫁された対象を指す言葉として使われるようになりました。
スケープゴートとされた人の痛みや傷は計り知れません。しかし人の集団心理は恐ろしく、不満や不快感を何者かのせいにして、集団で暴力的になることがままあります。
今の時代、コロナの問題も含めて、そのようなことがあまりにも多く見受けられるように思え、人間が物事の本質を見極め、自律した心で、はっきりと物事を判断し、見極め、公正と正義―これは主なる神のご性質です―を求めて行動をすることが如何に大切で求められていることかを思うものです。
そしてイエス様の十字架への道というのは、ユダヤ人支配者たちの嫉妬から来る行動であると同時に、「真理」を見つめないままに、世の大きなうねりに翻弄されて心が揺れ動き、イエス様を褒め称えたかと思えば、次の瞬間にイエス様を憎悪する、そのような人間の愚かさ、弱さ、罪を聖書はイエス様の十字架への道を通して抉り出していると思います。

 ポンティオピラトは、目の前に向き合った無力に見えるイエス様に罪が見出せないことを認め、また一方で心引かれる一抹のものを感じて「真理とは何か」とイエス様に問い掛けましたが、そのまま踵を返すように、ユダヤ人のところに出て行きました。ピラトはイエス様に出会いましたのに、イエス様の前に立ち続けることを致しませんでした。

 しかし、その後ピラトはユダヤ人たちの前に立ちながら、裁判の中でイエス様を釈放しようと務めるのです。
 イエス様は「わたしは真理について証しをするために生まれた」(18:37)「わたしの国は、この世には属していない」(18:36)と言われました。それらの言葉と共に、ピラトの心に何かくすぶるものがあり、またイエス様に対する恐れを抱いていたのでありましょう。
 ピラトはユダヤ人たちに申しました。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人を釈放してほしいか」と問います。過越祭の恩赦があったということなのですね。
 しかし、ユダヤ人たちは「その男ではない。バラバを」と大声で返しました。強盗のバラバです。
 そこでピラトはイエス様を捕らえて、鞭で打たせました。ピラトは鞭打つことでイエス様を釈放しようとしたのだと思われます。
ユダヤ人の鞭打ちは律法の中「40にひとつ足りない数」39回までの鞭打ちが定められておりますが、ピラトの命じる鞭打ちですので、ローマ法に於ける鞭打ちです。数に制限はありません。また、ローマの鞭はただの革紐ではなく、体に食い込むような金属がはめられているものでした。
イエス様の十字架への道を非常にリアルに描いた『ミッション』という映画をご覧になった方も多いのではないかと思いますが、私はその中でも、鞭打ちの場面、引きずり回されるイエス様を、頑健なローマの兵士が、金属の埋め込まれた鞭でイエス様の背を打ち、背の肉が抉られる―背の肉が抉られ、体が赤黒くなるほどに血を流され、苦しむ姿が目に焼きついています。
息も絶え絶えの主に、ローマの兵士たちは茨で冠を編んでイエス様の頭に載せ、紫の服を纏わせ、側にやって来て「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打つのです。
棘のある硬い茨・・・棘が額と頭に何箇所も食い込み、血が止めどなく流れる。そして鞭打たれ、体中が血まみれになった体に、王の着物の色である紫の服をまとわされたイエス様。どれほど侮辱されたお姿だったことでしょうか。その姿は、あまりにも無力で、無抵抗な姿でした。
ピラトはそのようなイエス様の姿を確認したのでしょう。ユダヤ人たちの前に出て来て申します。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」と。ピラトとしては、これだけ鞭打てばユダヤ人は納得するのではないかと思ったのでしょう。
しかし、ユダヤ人たちは「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けるのです。

「ユダヤ人の王」と「死刑囚」がひとつになっている姿。驚くべきほど、相反する、矛盾するものがひとつとなっている姿がイエス様のもとにあります。
 イエス様の国は世には属していない国。天の支配。しかし、その国の王なる主が人となられたお方は、世の最も低いところに、貧しく、病を持ち、理不尽な苦しみの中に置かれている人たちの只中に降りて来られました。そして神が人となられたお方は、世に於いては死刑囚となっている。それも全くの無実の罪で。
 ピラトは無力で惨めなお姿になられたイエス様を、「見よ、この男だ」と言って人々の前に引き出しました。
「見よ、この男だ」、ピラトはこの惨めな男を見よ、こんな姿になるほどに無力で惨めな男に私ピラトには何の罪も見いだせないことが分かるだろう?と言う思いで人々の前にイエス様を引き出すのです。
「見よ、この男だ」、この言葉はラテン語で「エッケ・ホモ」=「この人を見よ」讃美歌にもなっている、救い主である「この人を見よ」という言葉になって行きました。
 ここにも相反するものがあります。
 今日お読みしている御言葉は、イエス様の十字架刑への道です。十字架への道のりは、「ユダヤの王」と「死刑囚」、また「見よ、この男だ」=「この人を見よ」、この惨めな男を見よ、救い主である「この人を見よ」という、相反するものが交差して一致する場所と言えるのではないでしょうか。
 物事の逆説が起こる。富む者は貧しくされ、貧しい者は高くされる。これらのことは、イエス様の十字架を通して交差して、引き起こされることであることを思わされます。

 しかし、ユダヤ人たちは「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫ぶのです。どれだけの人々が居たのか、ヨハネは語っておりませんが、他の三つの福音書では、群衆、民衆という言葉でこれらのユダヤ人のことを語られておりますので、多くの群衆が、ユダヤ人指導者たちの、イエス様への憎悪に同調して、ユダに入ったサタンの力と共に、「イエスという男を十字架に」という流れに、同調圧力に乗じるが如く、叫び続けます。
「律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」と。

 ピラトは恐れます。イエスという男は何者かと。そこで、再び総督官邸の中に入って、イエス様に相対し「お前はどこから来たのか」と尋ねます。しかし、イエス様はピラトに答えようとはされません。ピラトは申します。「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と。
 イエス様の答えは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と、ピラトを超えて、ご自分の命に対する権限は、神にあるということを語られます。そして、ピラトに神を超えてイエス様の命の権限を引き渡した者=ユダヤ人たちの罪はもっと重い」とも語られ、ピラトは「権限はピラトではなく神にある」という言葉にさらに恐れ、イエス様を釈放し、何とか自分がイエス様の死と関わらないように務めようとします。
 しかし、イエス様を釈放しようとするピラトに、ユダヤ人たちは狡猾に弱いところを狙って叫びます。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」。
 あなたの王はローマ皇帝ではないのか、ユダヤ人の王と自称している(と思われる)イエスという男を助けるなら、ピラト、お前はローマに反逆をしていると。
 ピラトはこれを聞いて、頭に血が上るのを感じたのではないでしょうか。自分の立ち位置が揺るがせられる、このままでは皇帝にユダヤ人たちから訴えられることに覚えて、そのままイエス様を外に連れ出し、イエス様を裁判の席に着かせたのです。
 ピラトは申しました。「見よ、あなたたちの王だ」。
 ピラトはイエス様には罪は無いことは分かっていました。しかし、人々の声に、そして、その声に従わなければ、その叫び声の主であるユダヤ人たちから、ピラト自身が、ローマ皇帝への反逆罪として訴えられる―ピラトは、ユダヤ人のまことの王「かもしれない」と心を掠め、また「罪が無い」ことがはっきりしているイエス様を、自分の保身のために見捨てて、ユダヤ人たちに引き渡したのです。

 裁判の席に、茨の冠を被らされ、血まみれの体の上に紫の衣を纏わされたイエス様に向かって、ユダヤ人たちは「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫びます。
 数日前の「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に」と叫びながら、なつめやしの枝を持ってエルサレムに迎え入れた、恐らく同じ人々が、恐らくはユダヤ人権力者たちの声に同調しない者はそのまま暴力を奮われるほどの殺気立つ中、その大きなうねりに、自らの判断力を無きものとしたまま人々は、罪の無いイエス様を「殺せ、殺せ」と叫ぶのです。

 ピラトは最後に確認をします。「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」。
 すると祭司長たちは、何と「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えたのです。これほどの主なる神への冒涜はあるでしょうか。
 彼らの律法の中、十戒の第一戒には、「あなたには、わたしをおいて神があってはならない」とあります。
 その十戒の第一の戒めを、主から与えられた最も大切な戒めを、祭司長たちは、自分たちの権力を脅かすイエス様の憎さに、簡単に捨ててしまい、世の権力、ローマ皇帝への崇拝を宣言したのです。それが心からのものでなかったにせよ、言葉に出すことは責任を伴うことであり、神を自分から退けたことになる、神への最大の冒涜の言葉です。

 ユダヤ人の祭司長はじめ権力者たちは、自分の権力の座を守るために、そこにしがみつくために、猛り狂い、神を冒涜しながらイエス様を十字架に架けるために叫びました。
 ピラトはイエス様に罪が無いことを知りながら、やはり権力を守るため、また自分を守るために、イエス様を十字架につけるために、引き渡しました。
 ユダヤ人、そこに居た群衆は、指導者たちの作る「イエスを殺せ」という大きな声、空気感とも言いましょうか、その中に呑まれて、自分で何が公正で何が正義であるかも吟味もせず、うねりの中に同調してイエス様を「十字架につけろ」と叫び続けました。
 権力への願望、自己保身、権力のある者たちのそそのかしに、自分で考えることを停止したように、権力ある者たちの作る世の流れの中で暴徒と化した人々―その人々は、その罪のすべてを、この時イエス様に向けていました。それらは罪であると同時に、人間の弱さでもありましょう。
 人々は、自分たちの罪と弱さのすべてをイエス様の上に置いたのです。イエス様は、人々のスケープゴートとされて、罪をすべてその身に帯びられて、十字架へと追いやられることになります。

 これらのことは、今、現代の私たちも問われていることなのではないでしょうか。そしてここにおられる私たちの殆どは、ピラトでもローマの権力者たちでもなく、群衆のひとりなのではないでしょうか。
今、世界全体が悪しき力に動かされて、その中で私たちは不安になり、恐れを持ち、世の声に、その大きな流れの渦に呑み込まれて、神の目である公正と正義を語り、行うことが難しい時代になっています。世間の流れに、同調しなければ退けられる恐れがあり、世に呑まれてしまいそうになる。私たちは、それらの不安や不満の中に埋もれて、主をないがしろにし、世の流れの中で、いつしか十字架に向かわせる者になっていないでしょうか。

 コロナウィルスのことで、こうして集い、礼拝をすることすら、困難になりつつあることを覚えています。もしかしたら、しばらく集えなくなるかもしれない。それでも牧師はひとりでここに立っているつもりですが。
 もし、そのような決断をしなければならない時が来たとしても、それは世の流れの中で、世の流れに流されて、世の恐れのうちに周囲に同調することでそうするのではなく、飽くまで信仰の決断として、主を見上げ、主に祈りのうちに問うことから始めなければならないと思います。その一致の上で、私たちの群とおひとりおひとりのために何が大切なことかを、決断をしていきたいと願っています。
 主は、主に信頼し、主に問い、主と共にある者に、必ず恵みと祝福を与えてくださいます。この受難節、思いがけない困難な時期で、私たちは私たちの立ち位置を見失いそうにすらなりますが、この時こそ、神を見上げ、神に問い、時をよく見極め、主の御声に自律的に従いゆくものでありたいと願っています。