「成長させてくださったのは神」(2016年11月13日 礼拝説教)

成長感謝礼拝
「 成長させてくださったのは神 」
ホセア書11:1~7
コリントの信徒への手紙一 3:1~9

 本日は成長感謝礼拝。子どもたちと一緒に礼拝を守れますことを感謝いたします。
 この世に生を受けたばかりのH君から、80代、90代の兄弟姉妹が、大人も子どももこうしてひとつの集い、ただおひとりの見えない神様の御前に立ち、礼拝しています。
 イエス様は今、天におられますが、教会はこの地上に於けるイエス・キリストの体です。イエス・キリストを頭として、世代を超えて、キリストの体を形づくる共同体です。イエス・キリストの十字架によって赦され、新しくされた人々が、それぞれの違いを超えて、互いに重んじあい、弱いところは補い合う、ひとつの体です。そして、それぞれ違いのあるおひとりおひとりを神様は愛しておられます。
「愛している」って、ちょっと難しい言葉ですね。「だーいすき」という意味。大好きなあなたのためには、命を捨ててまで助けてくださる、そのような「だーいすき」を、聖書では「神様は、あなたを愛しておられる」と語っています。

 旧約聖書はホセア書11章をお読みいたしましたが、11章は「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」という神様の言葉から始まっています。これは、主なる神様が、ホセアというひとりの人の口を通して、語られた言葉です。旧約聖書の主なる神様は、「熱情の神」とご自身を語っておられ、厳しい律法をお授けになったり、律法を守れない人間を「裁く」ということも語られますため、神様って恐ろしいお方なんじゃないかしら?と思えることもあるのですが、しかしこの箇所は、聖書の中で、とても珍しいほどに、神様が狂おしいほどに人間への慈しみと愛と憐みを、感情を露わにして語っておられる箇所です。
「幼かったイスラエルをわたしは愛した」と、イスラエルの人々を小さな子どものように語られていますが、イスラエルの人たちはこの時、小さな子どもだったわけではなく、十分大人の人たちでした。もちろん、この礼拝堂と同じように、大人から赤ちゃんまでひとつの民として纏まっていたわけですが、でも、神様の目から見ると、人間は、大人も子どもも皆「幼い子ども」。神様が手助けをし、教えなければ何も出来ない小さな子どもなのです。神様は、ここにいるおひとりおひとりを、子どもも大人も育ててくださっています。
「エジプトから呼び出し、わが子とした」というのは、奴隷として苦しめられ、暮らしていたエジプトの国から、神様がモーセを指導者にして導き出された、「出エジプト」という出来事を指します。出エジプトの出来事というのは、神様が、イスラエルの人たちをわが子とされ、腕を支え、歩くことを教えて、導かれた出来事だったのです。でも、神様は目には見えないからでしょうか。すべてのことは、神様が手を取り、してくださったことだということを人間はすぐに忘れ、神様を裏切ってしまい、他の神々の石や木で造った像を拝み、神様を裏切って、去って行ったのです。

 例えば、お友達が私たちのことを「ほかのお友達と遊ぶから、あなたとはもう遊ばない」と言って、ひとり取り残されてしまったら、悲しいですね。私たちがお友達のことが大切で、大好きであればあるほど、どん底に突き落とされるような悲しみに襲われてしまいます。
 実は聖書は、神様と人間との関係を、お友達よりももっと、恐らく関わりの深い、夫婦の関係、私たちのお父さんとお母さんの関係に譬えて語っています。特にお読みしたホセア書では、そのことが語られています。結婚というのは、一種の「契約の関係」ですから、主なる神様がイスラエルに律法を与え、神と人とが、愛し愛される応答の関係という契約の関係に入ったことと非常によく似ているのです。
 夫が妻に、妻が夫に、その契約の関係を破られ、裏切られ、去って行かれてしまったら、裏切られた側は、恐らく体の半分がもぎ取られたような喪失感と立ち上がれないような悲しみに襲われることでしょう。主なる神様にとって、イスラエルの人々が、神様を信じ、愛することよりも、目に見えて手にとって触れる、石や木で作った像=偶像に心を寄せて、神様ではないものを信じようとすることは、そのような、身を切り裂かれるような裏切り行為に遭ってしまったのと同様に、耐えがたい苦しみであったのです。
 でも、神様はそれでも裏切った妻のようなイスラエルを見捨てることがお出来にはなりませんでした。見捨てて、憎んで、苦しめばいいなどと、そのようなおよそ人間が思いそうなことは決してなかったのです。狂おしいまでの愛する者に裏切られた苦しみの中で、でも、裏切ることをしてしまう人間の弱さに目を向けられ、憐れまれ、激しく心を動かされ、憐みに胸を焼かれ、愛するがゆえに、尚苦しんでおられるのです。
 そして、8節にある「わたしは激しく心を動かされ」という言葉、「心を動かされ」とは、原文では「上と下をひっくり返す」という意味の言葉で、イスラエルの人々が、神様の与えられた律法を守ることが出来ず、また罪から離れられないのならば、神様の方が心を引っくり返し変えようと決心された、そのように読める言葉です
この箇所は、「神の回心」と呼ばれ、これは「心を改める」という改心ではなく、上下ひっくり返す、まるで180度変えられるという意味の言葉なのです。
 人間が変わらないのならば、神の方が心をひっくり返して変えられた。人間を変えようとするのではなく、とことん赦す決意をなされた。それは、人間の罪を、神様ご自身が引き受けて、罪を滅ぼすという方法でした。
そして、ホセアを通してこの言葉を語られた主なる神様は、この時から約800年後、御子イエスさまを地上に送られ、神の御子が十字架の上で、すべての人の罪を背負い、死なれ、人間の罪を滅ぼすという、律法―神様とのお約束を守ることの出来ない人間に対する、ただ憐れみによる罪の赦しの道を拓かれることになります。
 神の愛するひとり子が、世に来られ、人々の罪をその身に帯びて十字架の上で死なれた。これは私には、神様の愛の暴挙とも思える、なりふり構わないような神の激しい愛によって引き起こされたことがらに思えます。主の十字架は、そのような神の人間に対する激しい愛の中、私たちの生きる世にたった一度顕わされた、救いの業なのです。
 神様は、人間の罪、そして弱さが憐れで、打ち捨てておくことが出来ず、その罪を神御自身―イエス様とは、人となられた神御自身です―が引き受けられ、人間が担うべき苦しみを、神が担われ、罪を滅ぼされ、人間が新しく生きる道を拓かれたのです。

 そして、今日お読みした新約聖書「コリントの信徒への手紙一」は、パウロが二回目の伝道旅行の中で、コリントという町に作った教会に宛てた手紙です。
 パウロという人は、多くの方がご存知のとおり、復活のイエス様に出会うまでは、神の目には罪人で、イエス様の弟子たちの目からは、残虐な自分たちの命を脅かすような人でした。神は、そのような人の目に恐ろしいパウロをも憐れまれました。復活のイエス様はパウロの前に顕れて言われました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と。イエス様は苦しめられる者の言葉で、光としてパウロに現れ、パウロは倒れ、三日間目が見えなくなりました。その出来事を通して、パウロは心がひっくり返る者とされました。イエス様を信じない者から、罪を悔い改めて、信じて、福音を宣べ伝える人となりました。このことをパウロの回心、上と下がひっくり返る、心がまるで逆に変えられる出来事、であったと呼ばれています。
 神様は御自身で、御自身の心を引っくり返され、人を赦すことを意志として選ばれました。人間はそのような神の御手のうちにある神の子どもです。心を引っくり返された神は、御手のうちにある人間の心を引っくり返す―回心に導くこと―がお出来になります。

 そんなパウロはコリントに1年半滞在し、教会を建てたのですが、その後パウロがそこを発ち、しばらくいない間に、教会の中が混乱しておりました。
 教会は、イエス・キリストの十字架によって、罪赦された者たちの群です。ひとりひとりが違い、違うことを喜び、互いに重んじ合う群です。そして、あくまで中心、頭はイエス・キリストであり、中にいる私たちひとりひとりは互いに平等に重んじられつつも、人間を崇めたり人間が中心になるところではありません。あくまで神中心の交わりです。
 しかし、パウロの去ったコリントの教会の中では、イエス・キリストの十字架の救い―すべての人には罪がある。しかし、イエス・キリストを信じる信仰によって救われた―ということが中心ではなく、いつしか人間が中心のものに変わっていて、教会の中に分裂が起こっておりました。「わたしはアポロに」「わたしはパウロにつく」などと、人間の指導者の名を挙げて、所謂「派閥」のような分裂騒動が起こっていた様子です。これは現代の教会でも大いに起こり得る問題と言えましょう。
 このコリントの教会では、それぞれの人についておりましたため、恐らくは信仰の理解の仕方に違いがあり、自分たちと信仰の立ち位置が違う人々を見下したり、自分のあり方を誇ったり、そのようなことであったようです。
 それにしても、人間というのは、どこまでも自分の正しさを主張したい者だと思います。間違いを犯すことは、人間には誰にでもあることですが、自分の間違いを素直に認めて謝る、ということが、神よりも自分、人間を中心にした思いから抜け出せない時、神の御前に本当に自らの頭を垂れることが出来ない時、出来なくなります。
 そんな教会と人々に対し、パウロは、ひたすら十字架のキリストの救いのみを語るのです。お読みした3章の少し前、2章2節では「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと心に決めていたからです」と語っています。十字架は、人間の誇りを語るものではありません。人間の罪と神による罪の赦しを語るものです。私たちの前に十字架がある、ということ、また主の犠牲を思う聖餐卓があるということは、私たちは主の死によってしか、救われることは出来ないということを知ることであるのです。

 そしてパウロは、自分たちこそが正しいと思っている人たちに対し、3章1節で「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」と、非常に強い口調で、ねたみや争いの中にいる人々に対し語るのです。あなたたちは、自分中心で分からず屋だから、「霊の人に対するように語ること」すなわち、信仰の深み、豊かさまで語ることが出来ず、イエス・キリストをまだ知らない乳飲み子に対するようにしか、語れないのだという、信仰者であることに自負を持ちながらも、実はどこまでも自分自身を誇る人々に対して、痛烈に厳しい言葉で語っているのです。

 パウロもアポロも人間です。キリストを宣べ伝える人々です。
 人間に出来ることは、牧師もそうですが、人々を信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕えることだけです。人間が中心ではありません。神が私たちをそれぞれを分に応じて用いてくださるのです。私たちは、分に応じて神から委ねられた仕事を、ただ誠実に尽くすのみです。
 そのように神を中心とし、種を植え、水を注ぐという、自分に与えられた働きを誠実にしていく時、神様は豊かに働かれます。旧約の時代、イスラエルの人々は、神の愛に誠実に応えて生きることが出来ませんでした。それは神様を苦しめました。そしてそのような人間の不誠実は、神が豊かに働かれることを阻むものとなりました。
私たち人間が、自らを低くし、誠実にただ神から与えられた役目を果たすこと、自分と違う他者の働きを認め、それぞれの役割を重んじ合い、担い合う時、神様は私たちの働きに対し、豊かに応えてくださり、私たちを神にあって成長させてくださいます。それは、私たちひとりひとりに対しても、また、このキリストの身体という教会共同体に於いても同様です。
私たちはこのことを、神から与えられた人生の知恵として受け取りたいと願うものです。
 
 小さな子どもも、大人も、ここにおられるすべての人は、神に愛されている、神にとっては幼子です。しかし、私たちは、成長させていただけるように望み、期待したいと思います。
 神様は、私たちが、神様の愛に応えて、神様を一番に大切にし、神様を一番大切にしたところから、すべてのことを始めることを望んでおられます。自分を高みに置いて、自分の誇りで心をいっぱいにするのではなく、まず、神様を一番に愛することから、すべてを始めるのです。その時、神様は喜ばれ、私たちを、神様の御手のうちにある者として、成長させてくださいます。神様のことが分からない者ではなく、分かる者にしてくださり、神の畑、神の建物として整えてくださいます。

 今日は特に、共に礼拝をする子どもたちが、その生涯が主を頭として、豊かに育まれるものでありますよう、祈りたいと思います。
 子どもたちは、教会の宝です。子ども達が、神様によって絶えず「腕を支えられ」「歩く事を教えられる」(ホセア11:3)人として、豊かに成長してゆかれますよう、祈りたいと願います。