「十字架の前に―イエスの祈り」(2019年2月23日礼拝説教)

ヨハネによる福音書17:1~26

 ヨハネによる福音書の講解説教を始めさせていただいた頃、ヨハネによる福音書は、ヨハネの黙示録4章に登場する四つの生き物、獅子、雄牛、人間のようなもの、空飛ぶ鷲の中、「空飛ぶ鷲」をシンボルとして語られたり、描かれたりしていることをお話させていただいたと思います。鷲は太陽の光をひたすらに直視することの出来る生き物です。このことから、まことの光なる真理を見つめることの出来る生き物として、ヨハネ福音書は鷲に譬えられているということなのです。
ヨハネによる福音書が絶えず語り、ひたすら見つめ続ける真理とは、父なる神とイエス・キリストはひとつであること。父なる神のうちにイエス様がおられ、イエス様のうちに父なる神がおられ、さらにイエス・キリストの御名を信じる信仰を持つ者たちは、イエス・キリストのうちに入れられ、イエス・キリストも信じる者たちのうちにおられること――そしてすべてに聖霊が働かれ、父、子、聖霊、そして信じる者たちが一つとされること、これらのことを「知る」ことが、真理であり「永遠の命」である―このことを語り続けています。
ヨハネによる福音書は、ほかの三つの福音書に比べて神秘的な色合いが強い福音書と感じられますが、神秘と思われる内容は、この「父なる神のうちにイエス様がおられ、イエス様のうちに父なる神がおられ、イエス・キリストの御名を信じる信仰を持つ者たちは、イエス・キリストのうちに入れられ、イエス・キリストも信じる者たちのうちにおられる」という「ひとつとなる」という、言葉自体の不思議も含めての神秘に凝縮されるのではないかと思います。
そして今日お読みした3節でイエス様は祈っておられます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と。
 この「知る」という言葉は、ギリシア語でギノースコー。ただ何となく「知ってるよ」という言葉ではなく、人格的な関わりとして深く知る、という意味合いの強い言葉です。夫婦が互いを「知る」という場合にも使われる言葉です。人格的な深い繋がりを持ち、父なる神とイエス・キリストと、人間が、すべてを通して働かれる聖霊に結ばれてひとつとなる―すなわち、神に背く罪という性質の中に生まれて、神のもとから引き離されて生まれて来ているすべての人間が、イエス・キリストを信じる信仰によって、父、子、聖霊なる神とひとつとなる、そのことが「永遠の命」であることを告げているのです。
 とても理屈っぽいと思えてしまいますが、これらのことを画で書くことを想像してみると、丸い〇の中に、父なる神、イエス・キリスト、聖霊なる神が縦横無尽に働かれ、イエス・キリストの御名を信じる者たちも、そこにまぜこぜのように入れられてひとつとされている、三位一体なる神のある同じところに、イエス・キリストの名を信じる者たちも、愛によって招かれて入れられるということでしょうか。

「永遠の命」ということ、死なずにずっと生き続ける命なのかしら?生きることは辛いのに・・・などと思ってしまうかも知れません。しかし、聖書は世の命が続くこと、死んでも世を生きているようにずっとずっと生き続けることを「永遠の命」とは語っていないのです。私たちの認識出来る「時の流れ」という概念ではなく、神を深く「知り」、神と共に在ることを永遠と語り、永遠の命と語っているのです。
 そして、永遠の命こそが、ヨハネによる福音書が指し示すまことの光、真理であるのです。

 今日の御言葉は、14章からのイエス様の「告別説教」と言われる、最後の晩餐の席でのイエス様の長い教えの終わり、礼拝で言えば、説教後の祈りにあたるとも思える位置に置かれている祈りです。
 マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、イエス様の祈りを最後の晩餐の後、ゲッセマネに行かれて、苦しみ、悶えながら祈られたことが語られていますが、ヨハネは違うイエス様の姿を描いています。イエス様は、ご自分がこの後、弟子たちのもとから「去って行く」ことを知っておられ、弟子たちに告別の言葉を告げた後、父なる神へ、執り成しの祈りを献げられるのです。
 この長い祈りは、三つの区分に分けられており、1節から5節までは、イエスが御自身のために祈られた祈りです。そして6節から19節は、イエス様の直接教えられた弟子たちのための祈り。20節からは、イエス様が去った後、弟子たちの伝道によって神のみ心を受け入れる信仰者―私たち―のための執り成しの祈りです。

 この時、イエス様は天を仰ぎ―手を上げて―祈られました。これは、旧約の時代の祈りの姿勢であり、大祭司の祈りの姿でもありました。この祈りは、マタイ、マルコ、ルカがゲッセマネの祈りと言われているのに対し、大祭司の祈りとも呼ばれている祈りなのですが、この祈りの姿も、この祈りが「大祭司の祈り」と呼ばれる所以であるのでしょう。そして「パーテール、父よ、おとうさん」と、神を親しく、小さな子どもが親を呼ぶように呼びかけられ、祈り始められるのです。
 イエス様の時代には、大祭司カヤファという人がおり、この人が具体的にイエス様を十字架に掛けることに率先する人となりましたが、大祭司というのは、ユダヤ教の祭司職の長。年に一度の大贖罪日には、神殿の至聖所に入り、動物の犠牲を献げ、すべての民の救いのためにとりなしの祈りをするという大きな役目のある人です。
 それに対しヘブライ人への手紙によれば、イエス・キリストは「永遠の大祭司」と呼ばれています。ユダヤ教の大祭司は、世にあって次々受け継がれてゆく人間のこの世の役割ですが、イエス様は、唯一まことの神なる主から世に遣わされた神の御子。
 そのすべての人へのとりなしの道は、十字架の死によって拓かれました。イエス・キリストは、すべての人の救いのために、ご自身を神への犠牲の献げものとして、ただ一度十字架に架かられ、その自ら流された血によって、すべて神に背く姿で生まれてきた罪人である人間が神に赦され、神と共にある永遠の命に入れられる道を拓かれました。自らを犠牲の献げ物として献げられ、また自ら罪ある人間ための取り成しをされるお方です。
5節で主は祈られました。「父よ、今、御前でわたしに栄光をお与えください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」と。
イエス様は、すべての神の創造の御業のはじめから神と共におられ、神の言として万物をお造りになられたお方です。このことは、ヨハネ福音書の冒頭に語られています。
 その神としての栄光を捨てて、イエス様は世に遣わされ、世に降って来られました。ふたたび栄光のうちに戻られるためには、すべての人の罪を、その身に帯びる、十字架の死こそがその道であり、すべての人の罪を神の御子がその身に帯びて苦しみ死なれることが神の御心でありました。
 それは、2節にありますとおり、主なる神は子なるキリストに、すべての人を支配する権能をお与えになられたから。父なる神から与えられた、すべての人を支配する権能を、キリストは、自らを犠牲とされることにより、すべての人のために命を捨てることを通して用いられ、罪人を救う道を拓かれました。
 神の御子が贖いの犠牲として、十字架の死を遂げることで、すべての人が罪赦され、永遠の命を得る道が拓かれる、その業を成し遂げて天に帰られ、ふたたび栄光の内に入れられる―イエス様はそのために世に降られました。イエス様は、そのような永遠の大祭司であられます。
 すべての人を救うために命を捨てる。そのことが父なる神から御子イエス様に与えられた使命であり、その使命である十字架の苦しみを引き受けられることを、自らのために、この祈りのはじめに祈られ、続けて、イエス様が十字架に架けられ世を去って行かれた後の弟子たちのために祈られます。

 イエス様は、父なる神が世から選び出して、イエス様に与えられた人々に、その御名をあらわされました。
「御名をあらわす」ということ、聖書に於いて「名」には、その名を持つ存在の権威が置かれています。イエスの御名をあらわすということは、その名を用いて祈るならば、イエス様の祈りとなる、そのように理解をしてよいものです。
 イエス様は16:24で言われました。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたがは喜びで満たされる」と。
「イエス」という名、この名を呼ぶこと、そして「イエス」という名を用いて祈ること、願い求めることによって、神に祈りが聞き届けられる、病の癒しを、生きる苦しみを、イエスの名を用いて祈るならば、それはイエス様の権威のもとにある祈りとなるのです。イエス様の祈りと同質の祈りとなるのです。
 そのようにイエスの名を用いることを、その名の権威を弟子たちに与えられ、イエス様の言葉を聞き、弟子たちはイエス様こそ、主なる神から遣わされた神の御子であることを信じました。
 10節「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのもの、あなたのものはわたしのものです」これは、イエスの名を信じたならば、弟子たちが既に父なる神、子なるキリストとひとつとなっていることを表す言葉です。
 11節では、「わたしは、もはや世にいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」と祈られ、さらに願われるのです。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と。 
 イエス様はこれから去って行かれます。イエス様が世にいる間は、イエス様が弟子たちを守っていた。イエス様の弟子たちは、イエス様を信じたことによって、悪しき世のさまざまな人間の欲望、自己中心的な思いなどを求め続けるのではなく、神を求めるようになっている。そのような者たちを、世は憎むのです。
イエス様が去って行かれた後、世に憎まれている弟子たちを、神が世から取り去ることによって罪の世から離れさせるのではなく、世にあって「悪い者からまもってくださるように」イエス様は、天の父に祈られるのです。

「悪い者からまもってくださるように」
 これは、イエス様から、弟子たちにそして私たちにもとりなしていただいている祈りであることを覚えたいと思います。
 イエス様が私たちに「このように祈りなさい」と教えてくださった主の祈りの中にも「わたしたちを試みにあわせず、悪しき者からお救いください」と祈ることを教えていただいています。
 さまざまな世の災い困難から、イエス・キリストの名を信じる者たちが守られることは、イエス様の祈りであり、願いです。さまざまな思いがけないことなど、世には起こりますが、神は私たちを救い出し、守ろうとしてくださっている―このことに確信を持ちたいと願います。

 さらに20節からは、イエス様が去って行かれた後の、弟子たちの言葉によってイエス・キリストを信じる人々のためへのとりなしの祈りをされます。
 このとりなしの祈りは、この祈りのこれまでのすべてと、またヨハネによる福音書のすべてが「父なる神とイエス・キリストはひとつであり、父なる神のうちにイエス様がおられ、イエス様のうちに父なる神がおられ、イエス・キリストの御名を信じる信仰を持つ者たちは、イエス・キリストのうちに入れられ、イエス・キリストも信じる者たちのうちにおられる」ようになることを祈っておられるとおり、弟子たちが御言葉を告げ知らせた人たちにも、イエス様は同様に神とひとつとさせていただくことを祈られ、さらに「すべてを一つにしてください」と祈られるのです。

 イエス様の十字架の後の時代の弟子たちが、御言葉を宣べ伝えた人々―私たち、そして世の教会―がイエス・キリストにあってひとつとなること、教会共同体に生きるひとりひとりが、父なる神とイエス・キリストの交わりのうちに信仰によって入れられ、イエス・キリストがその内に居て下さる命に生きる人々が、「一つとなる」こと。―これは、私たち、土気あすみが丘教会の教会共同体に対しても祈られている、イエス様の祈りとして受けとめるべき祈りです。
 ヨハネによる福音書14章では、「新しい掟」が語られ、新しい掟とは、「互いに愛し合うこと」「互いに仕え合うこと」であることを、イエス様は弟子たちに教えられました。
 そのように愛し合い仕え合うことに於いて一つとなる共同体であることを、イエス様は、世のすべての教会共同体に求めておられます。ひとりひとり、神と共にある命に生きる者たちが、ひとつの教会に集うところに、神と共にある人々が、神と共に、また人と共に、完全に「ひとつになる」ことが完全に成されるのです。
「ひとつとなった」時、神がどれだけ御子を愛され、また世にあるイエス・キリストを信じる者たちとその群である教会共同体を愛しておられるか、その愛が、私たちのうちに鮮やかに現されることでありましょう。

 今日は、教会総会。主を真ん中にして教会の大切なことを審議いたします。「ひとつとなること」、このことが、イエス様の十字架前の最後の祈りとして祈られていることを、私たちは覚え、教会総会が豊かに主の御心が現される場と時であることを祈り求めたいと思います。

 最後に「一つであること」、それは私たち皆が同じになることでは無いことを覚えたいと思います。年齢、性別、生きてきたこれまでの経験、好きなこと、さまざま皆違います。私たちは違いのある者たちが、イエス・キリストの御名のもとにひとつとなって神を礼拝する共同体です。
 おひとりの神は、父、子、聖霊なる三位一体の神。三つにいましてひとつのお方。そのあり方と働きに違いがありながらも、おひとりの神。
 この教会は、そのお方と信仰によって一つとされた者たちの共同体である世にある共同体であり、私たちはキリストに結ばれて招かれた、この教会の中にいるひとりひとりです。
 神が三位一体であられるように、私たちもそれぞれ違いがあります。個性があり、人格があり、その人格のゆえに神に愛されている私たちひとりひとりです。
 そのような違う私たちが一つとなるということは、「愛し合う」「仕え合う」という「掟」が基本にありながら、音楽に譬えるならば、同じ音を奏でるのではありません。多様性を認め合う共同体であり、神が三位一体であられ、三位がそれぞれ違う役割を持っておられるように、私たちの共同体も、皆が同じ音を奏でるユニゾンではなく、それぞれが違った音を奏でつつ、調和のあるハーモニーを造り上げると言いましょうか。
 違いながら、キリストにあってひとつとなる―美しいハーモニーを奏でる教会共同体でありたい、そのことを願っています。
 そして、今週水曜日から主の受難節に入りますが、イエス様のこの祈りを心に刻みつつ、主なる神とひとつとさせていただくこと、またこの教会共同体が主にあってひとつとなることで、神と人とが完全にひとつとされ、神に喜ばれ、神の御業があらわされることを願い求めたいと思います。