1月15日礼拝説教「新しく生きる」

聖書 イザヤ書40章28~31節、ヨハネによる福音書1章14~18節

「新しく生きる」

イエス様は青年になると洗礼者ヨハネの所に行き、彼と会いました。ヨハネはイエス様が現れるより前に、人々に悔い改めを告げた人です。彼はイエス様がそばに来る前に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とイエス様が救い主であることを告白しています。「世の罪を取り除く」は「世の罪を担う」とも訳せる言葉です。

私たちに与えられる祝福のすべては、父なる神が私たちに罪を負わせずにイエス様の犠牲によって私たちを受け入れるという、この恵みからあふれ出ます。罪を取り除くことがお出来になるのは神様以外にはおられません。そのことをヨハネは30節で「わたしよりも先におられたからである」と説明しています。「私よりも先におられた」と訳されていますが、原典では「私の先に昔からおられた」、すなわち「永遠の昔からおられた」という表現が使われています。ここに使われている「先に」という言葉は絶対的な「最初」を表す言葉なのです。聖書は長く多くの人々によって研究されてきていて、このような表現の微妙な違いが明らかになっています。すなわちヨハネの告白は「私が先に水で洗礼を授けているが、このお方は世の初めからおられる言葉なる神である」ということを告げているのです。

旧約聖書のイザヤ書49章に「主の僕」のことが書かれています。世界に向かって神はご自分の言葉を聞くようにと告げます。1節に「主は母の胎にある私を呼び、母の腹にある私の名を呼ばれた」と書かれています。ここで主は神さまのことであり、「私」はイエス様を表します。神は神と共におられる言葉なるキリストに人の体を与え、人と同じものとしてこの世界にお遣わしななることが約束されています。そのお方の使命は鋭い剣と尖らせた矢のような言葉で世の人々を裁くことでした。しかしこの裁きは人を滅ぼすことに向かうのではなく、「神の子羊」であるイエス様がご自分を裁き、人間に代わって死なれることによって果たされたのです。

イエス様が救い主である理由は32節にも書かれています。ヨハネは霊が天から降ってイエス様の上にとどまるのを見ました。ヨハネが神から立てられた時に、神は「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と告げておられて、彼は今まさにその光景を目にしました。ヨハネは「私はそれを見た。だからこの方こそ神の子である」と人々に告げました。このお方イエス様こそ世の罪を取り除く神の子羊です。

 

「霊が降る」というのは聖霊による洗礼を意味しています。人は水で洗礼を受けますが、その時に聖霊が降り受洗者にとどまることを意味しています。洗礼式の時には主イエス様が共にいて受洗者に霊を降しておられます。

洗礼は形式的には牧師が「父・子・聖霊の御名によって洗礼を授ける」と告げながら受洗者の頭に水を置くのですが、同時にイエス様が霊を降してくださいます。

このことによって何が起きるのか。実に洗礼者にとって外的な状況は何も変わりません。しかし世界が変わって見えるようになります。神が身近に、共におられることを感じるようになります。受洗前は、世界は偶然が積み重なってできている、自分も他の人も偶然そこにいると思えていたのが、洗礼後には神の働きを感じるようになります。

ある人は灰色だった世界が綺麗なカラーで見えるようになったと表現しました。ある人はからからに乾いていた心が潤されて希望が湧いてきたと表現しました。そしてある人は心の中にあった固い岩のような怒りの塊が崩れていくのを体験したと表現しました。これらは決して嘘や過大な表現ではありません。

神の存在を感じるようになり、イエス様と人生を歩み始めた時から世界が変わって見えるのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17節には「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者だ」とかかれていますが、このようなことが起きるのです。

初代の信徒から今日の信徒に至るまで、キリスト者は神の霊を受けて新しく生まれました。生まれ直すのではありません。受洗者はそれまでの人生をそのまま持って新しく生まれます。ちょうど人が母から生まれる時に胎児の期間を持っていたように、しかしそこで母を離れて自分で息をするようになったように、洗礼によって霊を受けた人はそれまでの人生を持ったままで神と共に歩み始めるのです。

イエス様が霊を受けられた、すなわち洗礼を受けられたということは、私たち人間と同じ歩みをされたことを意味します。その意味する通り、イエス様は人として寝るところがないという生きる苦しみを味わい、罵られるという屈辱を身に受けました。洗礼を受けて新しく生まれることによって、私たちがイエス様が受けたと同じ苦しみを受け、屈辱を味わわなければならなくなっても、イエス様がそばに居てくださることを感じ、そこに安らぎを得るようになります。もっと言えば、苦しみや屈辱を経験する時こそイエス様を身近に感じるようになります。キリスト者は洗礼で新しく生まれた者であることをもう一度思い出し、新たな年を主の祝福のうちに歩いてまいりたいと思います。