8月13日礼拝説教「よい知らせを伝える」

聖書 創世記37章23~28節、ローマの信徒への手紙10章5~15節

創立20周年に与えられた夢

私は創立40周年のことを考えるために創立20周年記念誌『一粒の麦』を改めて開いて読みました。すると挨拶文に20周年の時の夢が書かれているのに気づきました。私は何度か開いて読んでいたのですがこの挨拶文に目を留めたのは初めてでした。そこには宗教法人格取得と第一種教会への移行という2つの夢が書かれていました。そして教会は2007年7月に宗教法人になりました。

話は土気連絡会のことになるのですが、今年の1月に開かれた西千葉教会との土気連絡会で西千葉教会のある土気連絡員の方が『土気あすみが丘教会の沿革』というA4サイズ1枚の資料を私たちにプレゼントしてくれました。その資料の右端、未来を表すところに第一種教会建設式という文字が書かれていました。私はその時にはこの意味が分かりませんでした。しかしこの20周年の夢である「第一種教会への移行」と結びつき、「ああ、これだったのか」と納得しました。

しかしこの言葉が私たちの夢となるには、もっと聖書の御言葉に聞かなければいけないというふうにも思いました。なぜなら第一種教会への移行の夢が達成しなければならない課題のようになってしまっては、私たちを苦しめるものになると思ったからです。第一種教会の主な要件は現住陪餐会員が50人以上ということです。この外見的な要件に捕らわれ過ぎると教会員を増やすことが目標になってしまいます。

しかしこの要件は外見的なことに過ぎません。第一種教会を目指すということは、主が命じられた「すべての人を私の弟子にしなさい」(マタイ28:19)というご命令を忠実なしもべとして果たしていくことです。主はなぜこのご命令を出されたのでしょうか。私たちは過去の教会がこの言葉を間違って理解してしまい、世界のいろいろなところで武力や策略を使って人々を改宗させた過ちを思い起こさなければなりません。そしてそれは私たちも陥るであろう罪の結果であることを知らなければなりません。本日のローマの信徒への手紙10章15節には「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」という言葉で福音を伝えることが語られています。本日与えられた御言葉から、信仰とは何かということと、なぜすべての人に福音を伝えるのかということを聞いてまいりたいと思います。

信仰とは何か、それを伝えるとはどういうことか

信仰とは何か。パウロは9節で「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と語ります。そして10節で再び「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」と語ります。まず、公けに言い表わすことと、信じることに順番はない、ということを確認したいと思います。

「イエスは主である」という言葉は、私たちが仕えるのはこの世の権力や富や自分自身ではなく、イエス様であるということを告白する言葉です。誰が私たちの主であるか、私たちは何に仕えるかということは、いつの時代でも、キリスト者にとっては最も重要な事柄です。そしてキリスト者は「イエス様は主です」と信じて告白する。なぜならば自分がイエス様によって救われた者であることを堅く信じることからこの言葉が出て来るからです。ですから「神がイエスを死者の中から復活させられた」と信じることと切り離すことはできません。なぜならこのことを信じることによって、キリスト・イエス様の救いが保証されているからです。初代教会は「主の復活の証人になって」伝道しました(使徒1:22)。キリスト者にとって大切なことはこの2つのことによって表される信仰によって生きているかどうかということです。私たちにとって自分自身が自分の主ではなく、権力や富も主ではなく、イエス様が主であるということが信じられるならば、主に従うところに安らぎがあることが信じられます。

11節にあるように主を信じる者は失望することはありません。主イエス様は天に昇られて神の右にお座りになりこの世界のすべてを治めておられます。ですから主を信じ、主により頼む者は決して失望しません。ただ主の御業を待ち望めば良いのです。13節にあるように主の名を呼び求める者はだれでも救われます。平安が与えられます。それはすべての人が対象です。救われない人はいません。

神さまはすべての人を御計画に従ってお救いになる

さて、それならば律法を厳格に守っていたユダヤの人々はなぜ救われなかったのでしょうか。その理由は少し前の3節にあるように、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったから。つまり律法には従うが、神の名を呼ばなかったからです。彼らは律法の行いによって神に正しいものとされると信じていて、神を正しく認識していなかったのです。これは他人事ではありません。私たちもそのようになってしまう危険があります。イエス様の教えを文字として理解しそのまま実行しようとすると神の名を呼ばなくなる、祈りによって神さまを呼ぶことをしなくなるでしょう。パウロはそのような人たちが救われることを心から願っていました。

5節の「掟を守る人は掟によって生きる」というモーセの教えをユダヤの民は誤解していました。これはレビ記18章5節に書かれている言葉です。掟とは律法のことです。律法を守る人は命を得ると勘違いしたのです。しかし律法は命を得る方法ではなく、信仰者がいかに生きるかの戒めなのです。

6節にある「信仰の義」は「律法の行いによる義」とは違います。義というのは神に正しいと認められることです。唯一、キリスト・イエス様が天すなわち神の国からこの世界に降ってこられたのであり、底なしの淵すなわち陰府に降られたのです。そして地上で、また陰府で救いの福音を告げられました。律法が生きる戒めとしての機能を果たすことができるのは、信仰によってのみです。信仰によって神と共に生きること、それが神の求める義です。そのことをパウロは申命記の言葉を使って「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」と告げました。

信仰とは、口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じることです。イエス様を主と告白してイエス様に倣う者は神さまを信頼します。それは自分やこの世の栄華を「主」とすることを否定することによって永遠の命を得ることです。

教会が傲慢にならないために

冒頭でこの教会には第一種教会への移行という夢があることを知ったというお話をしました。そしてその夢は信徒の数を増やすことではないということをお話ししました。それならば何のために第一種教会に移行するのかを問わなければなりません。

週報の裏面に書きましたが、昨今ではDVや無差別殺傷、性暴力、誹謗中傷などの事件が頻繁に起きています。これはこの社会が神様への恐れを抱いていないことに根差しています。自分が自分の主人だから神さまは二の次です。自分の価値観が神さまですから、そのような価値観を持っている他人と衝突することは明らかです。多くの人は力関係を推し量って自分の言い分を抑えて相手の言い分を聞くか、自分の言い分を押す通すかします。上手くいかない時のはけ口は自分より弱い者に向かいます。

一方で、食べられない苦労をしている人たちがいます。病気や障害を持っている人たちがいます。仕事の軋轢で苦しんでいる人、子育てや介護の苦労を一人で背負い込んでいる人、対人関係で苦しんでいる人がいます。イエス様はその方々の重荷を背負ってくださいます。主はそのようにしたいとお望みです。一人で苦労や困難に立ち向かわなくて良いのです。私たちキリスト者はそのことを知っている者たちであります。律法を守るよりはるかにやさしい道です。

神の子としていただいたキリスト者が礼拝にあずかり御言葉を聞くことは大切なことですが、それに満足しているだけでは主の御心に適いません。どうしたら良いでしょうか。14節、15節に書かれています。主の名を呼び求めるためには主を信じることが必要です。信じるためには主のことを聞くことが必要です。聞くためには宣べ伝える人が必要です。宣べ伝えるには遣わされることが必要です。

そこで私はイエス様のご命令を繰り返します。「すべての人をイエス様のもとに連れてきなさい」、「すべての人をイエス様の弟子にしなさい」。イエス様の弟子になるというのは自分自身やこの世の栄華を主とすることを止めて、イエス様を主とすることです。それによって私たちに命が与えられます。

キリスト者は共に主の食卓を囲むという聖餐にあずかっています。主と共にあること、主の兄弟姉妹として共にあることを確認し、恵みを得ています。しかしその聖餐の場に招かれている人たちがまだ来ていないことに悲しみを抱いていなければなりません。聖餐に啓示されている主との交わり、主にある兄弟姉妹の交わりを多くの人が知り、一人で重荷を背負わなくても良いことに気づいて欲しいと願います。

この願い抜きに信徒の数を増やして一種教会になるという夢を持つことは人間的な欲望です。人が多い方が献金が集まる、奉仕者が増えると楽になる、と考えるのは教会の傲慢です。すべての人が主と共に生きるという夢こそが私たちに与えられている夢なのです。この地には数万の人が住んでいます。第一種教会の要件50人というのは主の御心からすればあまりに少なすぎるのです。それは夢の途上なのです。

良い知らせを伝える者の足は美しい

良い知らせを伝える者の足は美しいと語られています。良い知らせ、福音を伝えることは結果を考えずにおこなうことです。私たちが若い人や親しい人に「あなたは独りではありません。主なる神さまが共におられます。あなたも信じるならば命を得ることができます。」と伝え、その人たちがイエス様を主と告白するようになることは美しいことです。