12月17日礼拝説教「救い主の預言」

聖書 イザヤ書61章1~3節、ルカによる福音書1章26~38節

マリアに告げられた驚くべき言葉

私たちは今、待降節の真っただ中にいます。そのような中で今日、私たちはイエス様の母、マリアへの受胎告知を聞く機会が与えられました。マリアへの受胎告知は喜びの出来事として捉えられています。もちろんそうなのですが、告知を受けたマリアにとっては非常に驚かされる出来事でした。私たちはこのことを想像する心を持ちたいと思います。

神は御子によって世をお救いになる

マリアはユダヤの田舎町ナザレに住む未婚の若い女性でした。彼女には結婚を約束したヨセフという人がいました。ある日、そのマリアのところに天使ガブリエルが来て、マリアに「おめでとう、恵まれた方 。主があなたと共におられる 。」(28節)と挨拶しました。マリアは善い行いをしたわけでも、家柄が良いわけでもありません。この場面を描く絵本では、マリアは天使が現れた時、洗濯をしています。そのような普通の女性の日常に突然、天使が現れて挨拶したのです。マリアは天使の言葉を聞いて驚き、不安を感じました。

マリアは何かとんでもないことが起きるのではないかという予感にとらわれました。29節に「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」と書かれていることから、マリアの不安や恐れが伝わってきます。マリアは天使の言葉にひどく驚かされました。そしてその言葉が何を意味しているのか思いめぐらせました。「なぜ私にこの言葉がかけられたのかしら」という思いが頭の中を駆け巡ったことでしょう。

天使は「マリア、恐れることはない 。あなたは神から恵みをいただいた 。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(30~31節)と告げました。これは結婚していない少女が妊娠して子どもを産むということです。マリアの不安は的中しました。

当時のユダヤでは結婚前の女性が子どもを産むということは姦淫の罪を犯したとされ、石打の刑で殺される掟がありました(申命記22:21)。もしマリアが子を産めばマリアは殺されることになります。そのような危険な目に遭うことを告げる天使の言葉にマリアは非常に驚きました。

一方、天使が名付けるように命じたイエスという名前は「神は救い」という意味です。この名前は当時、多くの子どもにつけられた名前ですが両親の期待によってそのような名前がつけられたのとは違って、天使が直々に名付けるように命じたのですから、神のみ旨によって「神の救い」が人として生まれることがその名前に示されています。すなわち「神は人間をお救いになる」という意志がその名前に表されています。

人間は昔も今も神に背き、この世界で自己中心的に生きています。滅ぼされても仕方がない存在です。しかし神はこの世界に神の御子をお遣わしになりました。そのことによって、神は人間を見捨てずに、人間が悔い改めてご自分の許に帰る道を用意してくださったのです。

天使の言葉は続きます。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家 を治め、その支配は終わることがない。」(32,33節)という言葉です。

「偉大な人になる」という言葉は偉大なことを成し遂げる人ということです。イエス様の誕生はヨハネによる福音書3章17節に書かれているように「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです」。それはしかし私たちが考えるような称賛に価する行いによってではなく、イエス様がみじめにも人々から排除されて十字架の死を遂げられることによって成し遂げられる罪の赦しの行いによってでした。

次に「いと高き方の子」という言葉がありますが、これはイエス様が「神の御子」、「神の独り子」であるということです。「ダビデの王座」とはまことの王ということ。まことの王は敵との闘いの最前線に立ち、人々を守る人です。そのようなまことの王がイエス様です。

「ヤコブの家」はイスラエル12部族の中心部族であるマナセ族とエフライム族を指しており、この言葉にはイエス様がすべての人々を治めるということが込められています。

このことはイエス様の誕生を預言したイザヤ書61章1節から3節の預言にも書かれています。すなわち、神は人々の中でも特に「貧しい人・打ち砕かれた心の人・捕らわれ人・つながれている人、すなわち、主を求めて嘆いている人々」を救うためにイエス様をこの世にお遣わしになりました。自己中心的に生きている人は裁きによって神に立ち帰ることを促され、主を求めて嘆いている人々は救い出されて神に立ち帰るのです。

なんと素晴らしいまことの王がお生まれになることでしょう。天使は「世をお救いになるまことの王」がマリアに宿ることを告げたのです。

神の言葉によって生き方を変えていただく

しかし、マリアにとっては殺されるかもしれない役割を果たすように告げられたのですから、簡単に受け入れることはできません。34節にあるように、マリアは天使に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言いました。驚きや戸惑いの中でなんとかこの事態を理解しようとして発した言葉だと思います。

天使は答えました。「聖霊があなたに降り 、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる 。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない 。」(35~37節)

イエス様は神とマリアとの間に出来た子ではありません。神の力によってマリアに宿った子です。それはどういう意味かと申しますと、「イエス様は神と共に世の初めからおられるお方であって、そのお方がマリアに宿って人となられた」ということです。このことを福音書記者ヨハネは「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(1:1,4)と語っています。

天使の答えの中に「神にできないことは何一つない 」(37節)。という言葉があります。この言葉を出来るだけ忠実に訳すと「神のすべての言葉は不可能ではない」となります。神においては語られた言葉が不可能になるということは絶対にない、ということです。天使が語った言葉は驚くべきものでした。人間が成し遂げることなど決してできないことです。しかし神の言葉が発せられたから、このことは必ず実現します。

マリアは天使の言葉を聞いて、そのことを信じました。そしてマリアは天使に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)と答えました。この「お言葉」は37節の天使の言葉にあった「言葉」を受けているのです。「あなたが今言われた、そのお言葉が、私において真実に起こりますように」、「そのお言葉のとおりのことが私に起こりますように」。そのようにマリアは答えたのです。マリアは神に従順でした。神の天使に出会い、従順になったとも言えます。彼女自身がこの出会いと天使との会話を通して変えられたのです。マリアがこの言葉を受け入れる決断をしたことが、従順であったことが、神がこの世界に来られる足掛かりとなりました。

決断の時

私たちが生きる人生は決断の連続です。決断をすることは恐いことです。しかし、決断力しない時、人の意見でしか動かなくなってしまった時に、私たちは生きていくことはできません。私たちの人生は決断によって造られます。大小さまざまの決断において、その一つ一つの場面において、私たちが神を信じている人間であるかどうかが問われるのです。マリアはその意味で実に見事な決断をした信仰の先輩です。

私たちにも突然の出会いと言葉が与えられる時が来ます。キリスト者にとっては神を信じ、洗礼を受けることを決心した時がそうです。神が御子を犠牲にしてでも人間を救おうとされている、そのことの圧倒的な力に包まれて、神を信じて神と共に生きることを決心したのです。もちろんお一人お一人の事情は違いますが、神を信じるという決心をしたことにおいては誰でも同じです。

しかしながら、洗礼を受けるということは名誉でも誇りでもなく、場合によっては周りの人たちから特別視されるといった不利益をこうむることがあるかもしれません。それでも人は神の圧倒的な力と、どんなことをしても私たちを救うのだという意思に打たれて、神の救いにあずかろうと決心します。私たちもマリアと似たような経験をし、神の招きに応える決心をしました。そして決断の時は生きていく中で何回も訪れます。私たちがその決断の時に、マリアのように神に従う決断ができるように祈りつつ日々を送りたいと思います。