「心を固く保ちなさい」(2018年12月2日礼拝説教)

エレミヤ書33:14~16
ヤコブの手紙5:1~11

 待降節、教会の新しい一年が始まりました。
 先週は多くの皆さんのご奉仕で、美しいクリスマスの飾りつけが整いました。一本目の「希望」を表すキャンドルが灯され、一年のはじまりの待降節の典礼色は、紫。私たちの心の悔い改めを表す色です。
 一年のはじまりと言いますと、日本のお正月は「一年の計は元旦にあり」と言われ、また「はじめよければすべてよし」のように、はじめの日こそが晴れがましい、さもおめでたいこととして捉えていますから、教会の一年も、12月25日、イエス様のお誕生日から始めたら良かったのではないか?と思ってもみるのですが、一年のはじまりは、「ご降誕」、その日ではなく、「待降」=ご降誕を待ち望む時からなのです。
 洗礼者ヨハネ―この人のことについては、ヨハネによる福音書の講解説教でお話する機会が多くありましたが、この人は「主の道を整える」人として、イエス様に先立って神から送られた人でした。そして、人々に水による悔い改めの洗礼を授けていた。これは罪の世にあって、人間が聖い救い主・神の御子をお迎えするために必要なことでした。罪あるままでは、いえ、自分の罪に気づくことすらないのであれば、救い主が仮令来られても、そのことに気づくことも出来ないのではないでしょうか。罪とは神に背を向けること。その神に背いているという自らの罪に気づかないのならば、救いを救いとして受け取ることは出来ません。何故なら、主なる神の救いとは、私たち人間の罪からの救いであるからです。自らの罪を知り、悔い改めることで、救い主をお迎えすることが出来るのです。
 そのためになのでしょう。週報にも記しましたが、5,6世紀のガリア、スペインで起こったクリスマスに備え、イエス様をお迎えするために、悔い改めと断食の期間と定められたことを、教会暦は「待降節」として取り入れ、待降節第一主日を、教会の一年の始まりの日とすることにいたしました。
 この期間、己を深く見つめつつ、主の誕生と、待降節のもうひとつの意味、現代を生きる私たちが見据えるべきキリストの到来、主イエス・キリストが再び来られる時、主の来臨を待ち望みつつ、主をお迎えするに相応しい悔い改めの時として、身を正し、旧約聖書に於いて約束をされていた救い主イエス・キリストが来られることに希望をもって待ち望みつつ、日々を過ごさせていただきたいと願っています。

 本日はヤコブの手紙をお読みいたしました。この手紙は、パウロの「人は行いによるのではなく、ただ信仰によって救われる」という信仰義認の教えとは違い、「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と、信仰による「行い」を語っているがために、批判的に語られることとが多いのですが、もうひとつの特徴として、富んでいる人たち、貧しい人たちという対比が多く語られていることも特徴です。1章9節からお読みいたします。「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされていることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです」と語られており、2章では「人を分け隔てしてはならない」ということが語られ、さらに「神は世の貧しいひとたちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」と、貧しくされている人々こそ、選ばれた者で、ご自身の約束された国=神の国を受け継ぐ者として語るのです。

「貧しくされている人たちの救い」
 これは聖書全体を通しての大きなメッセージです。イエス・キリストは、高き天の玉座に居られるただおひとりの主なる神が、人となられ、世に来られたお方です。「神が人になる」、これは何と不思議な出来事なのでしょうか。神は世の罪を憐れまれ、すべての人の罪をその身に受けられ、十字架の上で死なれ、すべての人の救いの道を示されました。
神自らがすべての人の罪を身に受けられ死ぬということ、それは神の激しいまでの人間に対する愛であると同時に、神の激しいまでの厳しさを表しているのではないでしょうか。神は公平と正義の神であられます。罪は罪として断罪されなければならない。これは聖書の世界の鉄則です。しかし、その断罪されなければならない罪のすべてを、人となられた神がその身に受けられ、その身に於いて、罪を罪として断罪されたのです。それは、「贖い」としての死。すべての人の罪の代価としての死でありました。すべての罪を神は、罪ある人間に負わせたままにするのではなく、また犠牲の動物によって罪を滅ぼすのではなく、神が、神の子自らが人となられ、すべての人の罪をその身に引き受けられ、罪の贖いとして、イエス・キリストは十字架で死なれたのです。
 神が自ら人となり、人の罪をすべて引き受けて死なれなければならないほど、人間の現実を超えた神の現実に於いては、人間の罪は滅ぼし尽くされなければならないことであり、またそれほどまでに厳しい、公正と正義の神の目は、世の罪を、とりわけ世に於いて権力を持ち、人々を虐げる人々に厳しく向けられます。そしてその人々から虐げられ、貧しくされている人たちを限りなく憐れまれるのです。
 そのしるしが、イエス様のお生まれになった場所でした。イエス様はこの世に於ける両親となる、ヨセフとマリアが、泊まるところが見つからず、居場所がなく、馬小屋を休み場とした時に、貧しい馬小屋でお生まれになられました。どれほどそこは不衛生な場所で、出産には危険が伴ったことでしょうか。そして生まれたイエス様は、子ども用のベッドなどではなく、馬の餌箱である飼い葉桶に寝かされたのです。神の御子は、世の最も貧しいところにお生まれになられました。それは、世の貧しさ、虐げられたところに、神の御目は向けられる、神は居られる、光として共におられるというしるしです。
 神は憐れみ深く、恵みに富み、貧しく虐げられている人たちを、そのままお見過ごしになるお方ではありません。神は世の貧しく虐げられている人々に、必ず救いを表してくださいます。

 今日の御言葉のはじめは、世の富んでいる人たち、具体的には、世の地主に対する警告から始まります。非常に厳しい御言葉です。しかし、この御言葉は、信仰者はあくまでもひたすら貧しくあらねば救われないだとか、世のすべての富を持つ人に対する事柄ではないことも心に留めなければなりません。何故なら、聖書に於いて、世で与えられる富というのは、神の祝福としても語られているからです。神は人を虐げられたままにしようなどと考えておられません。神は、人間が神を知り、幸福になることを望んでおられます。申命記8章では「それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」(8:16)と、出エジプトの出来事を語っており、さらに「富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた約束を果たして、今日のようにしてくださったのである」と語られています。また、ヨブ記に於いては、神はサタンにヨブを試みることをお許しになりましたが、すべての後に、主はヨブの財産を戻し、更に二倍にされたと記されています。富は神の祝福、信仰の実りでもあるのです。
 しかし、自分に与えられている富というものを、神を忘れ、自分を誇り、自分の快楽のようなものにのみ用い、人を虐げるということに対し、神の目はとても厳しい。今日の御言葉では、そのことが語られています。「自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫がつき、金銀もさびてしまいます」と。世の富は神の御前に無価値なものであると語り、さらに「あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした」と、神を忘れ、自分たちだけの快楽にふけり、虐げられている人たちの取り分をも支払わない、そのような富は罪の結果として、終わりの時に厳しく裁かれることが語られるのです。
 それにしても、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、「屠られる日に備え、自分の心を太らせ」とは、皮肉な言葉ですね。罪の為に裁かれ屠られるための肥えた動物に譬えられているのですから。そして、労働者に正当に賃金を払わなかったことに厳しく目が向けられ、労働者の叫びが主なる神の耳に達していることが語られるのです。旧約聖書の時代、400年間エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民の叫びを主なる神は聞かれて、出エジプトの出来事が起こりました。主なる神は、虐げられ、苦しむ人々の叫びを、聞いておられます。そのまま打ち捨てることはなさいません。私たちがもし、苦しみの中で神に向かって叫ぶならば、主なる神は必ず、私たちの声を聴いておられ、憶えていてくださいます
さらに、6節「正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません」という不思議な言葉がありますが、ある使徒教父と呼ばれる人、2世紀頃の教会の指導者が、これはイエス・キリストのことを語っているのだと申します。しかし、神の御前に正しい迫害され殺された労働者だと理解をする人も多い言葉です。
 これは虐げられ、報酬をむしり取られながらも無抵抗のうちに殺された労働者の叫びに、イエス・キリストの十字架が重ねあわされている御言葉なのではないでしょうか。あなたがたが罪の無い正しい人、無抵抗のまま十字架に架けられたイエス・キリスト、このお方を殺したのだと。また搾取されて死んでしまった神の御前で正しい労働者たちの只中に、共にイエス様はおられた。イエス様は、世の人の罪だけでなく、世の苦しみをも担っておられる。そのことを重ね合わせつつ、世に富み、労働者たちから搾取する支配階級の罪を厳しく語っている、そのように思います。

 そして、イエス・キリストにある兄弟たち、殊更に貧しくされている兄弟たちに向かっての勧めをヤコブは語り始めます。ここには貧しくされている人たちが、貧しいが故に無条件に救われるとは語られていない厳しさがあります。貧しくされている中にあって、そこにあってもどのように生きるか、どのような心持ちで生きるかが問われると語られているのです。
「忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。農夫は秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の貴い実りを待つのです」と。
 イスラエルは地中海性気候で、乾季と雨季が分かれています。秋の雨は直訳すると「前の雨」、春の雨は「後の雨」と記されています。秋の雨、前の雨は土地を耕す10月頃に降る雨のこと。春の雨、後の雨とは作物が熟する前の4~5月頃に降る雨で、この二つの雨のどちらかでも欠ければ収穫はありません。長い乾季の間、どうして作物は枯れないのかと不思議なのですが、一滴も雨が降らない乾季には、昼夜の寒暖の差があり、夜露が落ちる。僅かな夜露を植物は命の糧にして乾季にはその僅かなもので自らを忍耐して養い続け、そして秋の雨、春の雨によって潤され、実を結ぶのだそうです。それと同様に農夫たちも必ず秋の雨、春の雨が降ることを信じて願い祈りつつ、僅かに見える糧、しかしそれは神から確かに与えられているものである日々の糧を大切に育みながら、忍耐をしつつ過ごすのです。
雨をもたらしてくださるのは主なる神。その信仰を固く保ち、希望を持って収穫を待つのです。「心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです」とヤコブは語ります。
 私たちは、目に映るさまざまなことが乏しく思える時、さまざまな不安も沸き起こります。貧しくされているときは殊更に自分の置かれている状況に対し、不平を口にしたりいたします。ここでは「互いに不平を言わぬこと」と語られているとおり、不平や不満を、家族、友人、親しい者たち、自分と同様に乏しさを抱える人たちと不平を言い合うことに対し、「互いに不平を言い合う」ことはしてはいけないと語られています。
しかし私は、神に不平を述べることは、全く良いことだと考えています。実際、私自身、神に向かって「どうしてですか?」とけたたましく訴える時があります。神に向けた訴えを神は退けられることはありません。不平は神に向かって叫ぶべきです。
 10節に「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」と語られ、続いてヨブ記のヨブの忍耐について語られますが、ヨブは、与えられた悲しみ、体の痛みが激しくなる苦難の中、友人たちがやってきて、「あなたが悪いことをしたからこのような災難が襲ったのではないか」などと、延々とヨブを責め続けるのですが、ヨブはそれでも友人たちに対し、同調したり、友人たちの言葉に乗って、友人と共に、自分に苦しみを与えられたことを赦された神をののしるということはしませんでした。しかし友人同士で不平を言い合うのではなく、神に自分の苦悩を激しく訴え続けたのです。友人たちとの議論が続くなか、ヨブの嘆きは神に向かっての叫びとなっていきます。不平というには重すぎる訴えは、すべて神に向かっての訴えの言葉でありました。そして、遂にヨブに神はそのご臨在を顕され、主なる神は、ヨブの忍耐に応えられ、ヨブの生活の失われたものを回復し、それをさらに二倍にするという祝福をお与えになりました。

 苦難の中で忍耐すること、そして訴えは神に。その姿勢は祝福に繋がって行きます。しかし、人間同士、互いに不平を言い合うことは、神からどんどん遠ざかる。神は私たちのすべてを知っておられ、時に私たちを子として鍛えようとされます。それが理不尽に思えたならば、神との関係に於いて訴え祈ればいい。神に訴えることは、神との関係の中の正しい関係にあることであって、神への訴えはすべて受け留められ、時間は掛かるのかもしれませんが、神はそれらのすべてを御心に代えて私たちに返答を与えてくださる時が来ます。また、神へ訴えるということは、私たちの祈りでもありますので、私たちの信仰は深められます。しかし不平を、人間同士の不平の言葉のなかに押し込めてしまったら、神は働かれず、不平は神へのそしりを産み、罪を呼び込み、澱み、私たちのすべてを濁らせてしまいます。

 主は慈しみ深く、憐れみに満ちておられる。そして、忍耐をする私たちを救おう、祝福に導こうとしておられます。そして、時が来たならば、主イエス・キリストは再び世に来られます。世を裁くために来られます。

 今、世の中が悪い。聖書の世界さながらに悪い。このことを私は憂いています。今日の御言葉の富んでいる地主たちの有り様というのは、現代のこの国の行政、そして企業の労働者に対する扱い、また外国人実習生の方々の実態に似ていると思えてしまいます。貧富の差が拡大し、社会全体が大きく歪んで来ていることに不安と憤りを覚える者でありますが、しかし、主は今、最早「戸口に立って」おられます。闇の中の光、イエス・キリストはすぐそこで救いの時を見つめておられます。主の公正と正義は、主の裁きは必ず顕わされる。御言葉はそのことを語っています。
 御言葉を信じ、この暗い世にあっても、イエス・キリスト、私たちを救うために十字架の上で命まで捨てられたこのお方に確かな希望の光を求めつつ、心を固く保ち、互いに不平を言い合うのではなく、問題を感じるならば、ひたすら神に訴え、御言葉に立ち、御言葉に、イエス様に縋りつつ、イエス様に向かって叫びつつも忍耐して、さらに自らの罪を悔い改めつつ、主の憐れみが表されることを待ち望みたいと願います。主はもうすぐ来られます。