「十字架への道―イエスの裁判」(2019年3月24日礼拝説教)

イザヤ書53:1~7
ルカによる福音書22:66~23:12

 受難節第三の主日を迎えました。
 先週の日曜日、午後3時少し前、敬愛する本城通一先生が、静かに、本当に静かにその命の息を引き取られました。
本城先生は、3年近く前より、土気あすみが丘教会で共に礼拝を献げさせていただくようになり、2年半ほど前に教会の会員となられ、共に手を携えて歩んで参りました。礼拝、そして特に聖書を読む会を通して、私たちは本城先生からたくさんのことを教えていただきました。一番先生が大切にしておられた御言葉は、コリントの信徒への手紙二3:6「文字は殺しますが、霊は生かします」でした。文字=律法を守るということでは果たし得ない、霊=聖霊に導かれる生き方を、本城先生は最期までご自身が全うされ、私たちにそのことを教え、残してくださったことを憶えます。また、賛美歌522番「キリストには変えられません」を、こよなく愛しておられた方でした。これはイエス・キリストこそが救い主、キリストに変えられる良いものなど世にはないという高らかな信仰証言の歌です。
私の知る本城先生は、たくさんのさまざまなお気持ちがあったに違いないのですが、イエス・キリストを信じる信仰、キリストとご自身の関わりについて以外のことは、ほとんど口には出されず、キリストをこそ信じ、行いによってのみ神との関係を自ら正そうとする、文字=律法に基づく生き方ではなく、キリストの霊であられる聖霊に力づけられる生き方を最期まで求め続けておられました。
別れは寂しいですが、天の故郷に於いて、やがて再会させていただくことに希望を置きつつ、私たちは、本城先生の証してくださった、イエスこそをキリスト、救い主とあがめ、その名のほかには救いは無いことを信じる信仰に、また聖霊に導かれて生きることを求め続けて行きたいと願っています。

 今日の御言葉は、逮捕されたイエス様が、どのような裁判の経過を辿って十字架へと向かって行かれたのか、その道程です。
「最高法院」「ピラト」「ヘロデ」と、三段階と言いましょうか、たらい回しにされているという印象がありますが、何故このようなことになるのか、当時のユダヤ人を巡る状況について、ご説明を加えつつ、今日の御言葉をひもとく必要があろうかと思います。
 イエス様の時代、ユダヤは、ローマ帝国の属州となっていました。属州というのは、一国であるべきはずの地域を、ある国家が領有して、税金を課してその国の支配下に置き、総督などを通じて監督下に置かれて統治されている状態を言います。そのようなローマ帝国の属州となっていながら、ユダヤ人たちは、ローマ帝国の領土内に神殿を持つことが赦され、独自の行政管理と裁判官庁としてのサンヘドリンと呼ばれる最高法院を持つ宗教的な民族として社会を持つという、ローマ帝国とユダヤ教社会という二重構造の中に生きていたのです。通貨もローマの貨幣と、神殿の貨幣、税も二重という社会です。

最高法院というのは、大祭司を議長とする71人によって構成されている議会で、その権限には、律法の解釈と適用、戦争と調和についての決断、世俗および宗教面に於ける裁判権がありました。しかし政治的決定は権限になく、政治的決定はローマ帝国によるものとなっており、死刑はローマ総督の同意なしには行われませんでした。ですから、イエス様はユダヤ教の最高法院で裁判を受けられた後、死刑を求めるユダヤ人たちによって、判決を受けるために、ローマ総督ポンティオ・ピラトのもとに連れて行かれることになったのです。

 イエス様は、ユダヤ教の祭司長たち、すなわち最高法院と関わりのある人々によって逮捕されました。そして、今日の御言葉では、まず最高法院で、ユダヤ教との関連に於いてイエス様は裁判を受けられます。投げかけられているのは、かなり乱暴な誘導尋問です。「お前がメシア=救い主ならそうだと言うがよい」と。
 ここでの裁判は、メシア、人の子、神の子と、旧約聖書の主、ヤハウェとの関わりに於いて、イエス様は「何者か」という、イエス様の称号が中心となっています。政治的なことは、最高法院では決定権はないのです。
ユダヤ人たちは、イエス様が神を冒涜している、ということをまず立証し、イエス様が人々を扇動して、政治的暴動が起きそうだということを、ローマに訴えたいのです。

それにしても、ここで語られる三つの言葉とも、重要なキリストの称号=肩書きを巡る裁判です。イエス様こそ、メシア=救い主である。イエス様は神の子である。イエス様は人の子、旧約聖書に於いて預言されている、終わりの時に表れる救い主である。
ユダヤ人は、主なる神、旧約聖書の主ヤハウェなる神との関係に於ける民です。イエス様は、そのお方と同じお方であり、また、三位一体の主として、天より地に遣わされた方=神の子であり、それは預言されていた人の子=終末に訪れる救い主です。
しかし、ユダヤ人たちはそこにそのお方がおられても信じようとはしない。端から神が人の子を送られることなど、実は信じてなどいなかったのではないでしょうか。いつの間にか、文字=律法とそれに加えた生活の細則を守ることこそが、宗教的な生活であり、その範疇で生きている限り、自分たちのプライドは保たれる。文字=律法は、神を誇るものではなく、いつの間にか、自分たち自身を誇るものとなっていったのです。
私たちは、この時のユダヤ人たちとは全く違う時代と、違う信仰を持っています。それは、私たちには既に、メシア、人の子、神の子がどなたであるか、明らかにされた時代を生きているからです。
私たちの信仰は旧約聖書の律法に留まるものではありません。「文字=律法は殺します」、本城先生の愛された第二コリント3:6の御言葉ですが、私たちは、新しい約束、神がそのひとり子を世にお与えになられ、そのひとり子の死によって、罪を赦され、贖い取られた民である、そして信じる者には、聖霊が与えられる。信仰によって与えられる聖霊に導かれて生きる、それが私たちの信仰の中心です。
しかし、私たちは、その明らかにされている信仰を、まことに携えているでしょうか?イエス・キリストは、救い主であり、人の子であり、神の子である、と高らかに言える信仰に立っているでしょうか。
聖書は、人間の罪をあからさまに描き、また神の厳しさも、信仰に生きることの厳しさも語ります。聖書の語る厳しさは、厳しさにとどまらず、まことの希望へと、いのちへと繋がっていくものなのですが、そこを見据えず、たとえば「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)のような、入り口の狭い、偏狭とも思えたりする御言葉を、私たちは実は受け入れず、すべての人はそのまま救いに与れると思ったり、人間の罪や、キリストの十字架の救い抜きで、御言葉を解釈し、イエス・キリストを通らないまま、ただ優しい神がいつも守ってくれているというように、自分よがりな「信仰」に陥っていたりしていないでしょうか。

イエス様というメシアであり、人の子であり、神の子であるお方が目の前におられても、気づかないで、そのお方を罵り続け、排除しようとする、そのようなユダヤ人たちと、私たちは、まことに、「そのお方」が与えてくださる救いを本当に見ようとしないという意味で、どこか似通ってはいないでしょうか。

 イエス様は、その誘導尋問に対し、ご自分から敢えて弁明などしようとはなさいません。曖昧にも聞こえる言い方で、「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」また「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」と言われました。
 イエス様が自らメシアであると自らを証言したとしても、ユダヤ人たちは信じない。それはユダヤ人たちは、イエスさまがメシアだということを期待して尋問しているわけではないからです。寧ろ正反対。イエス様がそれを語ったところで彼らは「神を冒涜した」と大喜びでイエス様を捕えることになります。そして、イエス様が「わたしはメシアだと思うか」とユダヤ人たちに尋ねたとしても、ユダヤ人たちは答えられない。何故なら「メシアだ」と言えば、自分たちの権威を否定することになりますし、また「メシアでない」と言えば、イエス様を捕らえる理由がなくなるからです。
 そこでイエス様は、「今から後、人の子は全能の神の右に座る」と言われました。「人の子」とは旧約聖書で預言されている救い主を表す言葉であり、神の右の座というのは、神の主権のある場所を表します。しかし「人の子」をご自分を指して仰っているのかどうかは分からない言い方です。それを聞いた祭司長たちは、言葉尻をとらえようといきりたちます。「ではお前は神の子か」と。イエスさまは、「わたしがそうだとは、あなたがたが言っている」と言われました。御自身がそうだとは言っておられません。しかし、この言葉で最高法院の人々は、その言葉を「言質が取れた」と見做すのです。非常に曖昧な言質の取り方です。
しかし「言質はとった」つもりになっても、しかし、ユダヤ人たち、最高法院には、死刑を執行する権限はありません。死刑執行の権限は、ローマ帝国にありました。ですから、最高法院で裁判をした後、23章ではローマ帝国から派遣されている総督ピラトのもとにイエス様を連れていくのです。
 そして訴えます。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と。
 この訴えは三つのことを言っています。「ユダヤ民族を惑わした」「ローマ皇帝に税を納めるのを禁じた」「自分がユダヤの王たる救い主だと言っている」と。このうち、「ローマ皇帝に税を納めることを禁じた」ということに関しては、ローマ総督の管轄になりますが、ほかの二つのことは、ローマ帝国にとっては何ら関係も害も無いことです。それは、ユダヤ人の宗教的、民族的な問題で、ローマ帝国は、当時偏屈で嘲笑われるような存在であったというユダヤ人の、内輪もめなど、関わりたくはないのです。
「ローマ皇帝に税を納めるのを禁じた」ということは、ユダヤ人たちの虚偽の訴えです。イエス様は、税金を納めることをユダヤ人たちに尋ねられた時、銀貨に誰の銘があるかと問われ、「皇帝のものです」と、ユダヤ人が答えると、「皇帝のものは、皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言っておられるだけで、皇帝に税金を納めることを禁じてはおられません。総督ピラトはそのやりとりを知る筈はありませんが、ピラトのもとには、イエスという人が、皇帝に税金を納めることを禁じるような運動がなされいるという報告などは、入っては居なかったのでしょう。ピラトはそのことは問題にここでしておりません。
それよりも、ユダヤ人の王ですとか、律法に関することを、ぐじゃぐじゃ訴えてきているユダヤ人たちは、本当に面倒な存在に思えたに違いありません。
 そしてイエス様に一応「お前がユダヤ人の王なのか」と、ピラトはユダヤ人たちの言っていることを問いますと、イエス様は「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。ピラトはそこで、これはただユダヤ人たちの宗教的な問題で、自分には関わりのないことだということを判断し、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と告げます。
 しかしそれでもユダヤ人たちは食い下がり「この男は、ガリラヤから初めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張るものでから、ピラトは、イエス様がガリラヤ出身であることを確認し、ガリラヤ出身ということは、ヘロデの支配であるということで、この時は過越祭のためにエルサレムに上ってきていたヘロデのもとに、イエス様を送るのです。
 
 このヘロデは、イエス様がお生まれになった時のヘロデ大王ではありません。そしてこの時のヘロデはヘロデ大王の三人の息子の一人で、ヘロデ・アンティパスという人です。ローマ皇帝はヘロデ大王の死後、ユダヤを三分割し、息子たちには「王」という称号は与えず、それぞれ「領主」にし、分割統治をさせており、ヘロデ・アンティパスはガリラヤ地方の領主でした。ヘロデは「王」ではありませんが、「王」に類する存在と言えましたので、ピラトは、ユダヤ人たちから「自分は王たるメシアだ」と言っていると訴えられたイエス様を、「お前たちの民族のことは自分たちで裁け」という恐らく意図だったのでしょう。ヘロデのところにイエス様を送ったのでした。

 ヘロデは、イエス様のことを奇跡を行う人としてのうわさを聞いており、面白がり、会いたいと願っていたということで、イエス様に会って嬉しくいろいろ尋問したとありますが、恐らく全く取るに足りない言葉だったのでしょう。祭司長たちはそこに居て、ヘロデにイエス様のことを激しく訴えましたが、イエス様はヘロデに対しては、何一つお答えになりませんでした。そこではただ、イエス様はあざけられ、侮辱されたのです。そして、「王だと自分で言っている」と「言っている」と祭司長たちが訴えていることに乗じて、派手な着物を着せて、見世物のようにしてローマ総督ピラトのもとに送り返したというのです。

 十字架へのイエス様の道行は、どこまでの人々の無理解と罪に満ち溢れています。
祭司長、律法学者、サンヘドリンの人々は、自分たちの堅く保っていると思い込んでいる、文字=律法に則ったと思っている「教え」―神が教えられたものからかなり歪められていたのですが―を、イエス様がそのまま踏襲しておらず、自分たちの思うように動かず、気に食わないのです。神は神を愛し、隣人を自分のように愛しなさいと教えられたにも拘らず、自分たちは、神から与えられた文字=律法の解釈を曲げて行い続け、隣人を愛するのではなく、人を裁き続け、神の愛の姿から離れていました。御言葉、神との関係も、あくまでも人間中心の思いで神のことを勝手に解釈をするようになっており、自分の罪に気づかないのです。文字=律法は、祭司長、律法学者たちを、神との関係に於いて、霊において殺していたのです。
また、総督ピラトは信仰に対しては無関心。ヘロデも信仰には無関心で自分の権力しか求めていない人でした。そのような人々によって、人間の罪によって、イエス様は、十字架への道を歩まされることになります。

 今日の御言葉から、改めて、私たちそれぞれ、自らを省みたいと思います。まことにイエス・キリストをこそ、救い主、神の子と私たちが認める信仰に立っているのか。曖昧に信仰を自分勝手なものに捻じ曲げていないかを。イエス様を十字架に架ける側に今も立っていないかを。
 私たちの信仰の主権は、中心は神にあります。まず主なる神、イエス・キリストがあってこそ、私があるということが中心です。
そして、人間には生まれながらの罪があることを認めること。そして、神は人間の罪を限りなく憐れまれ、ひとり子、イエス・キリストを世にお遣わしになり、私たちの罪に代わって、イエス様が十字架の上で死なれたこと。その死は、私たちの、私の罪のためであったということ。そして、信じるものに、神は霊=聖霊を与えてくださり、人間中心、自己中心の文字=律法による生き方ではなく、神から与えられた聖霊に力づけられ、促し続けられる、イエス・キリストを信じる信仰を通らなければ得られない、新しくされた者の生き方を私たちは果たして生きているのか。

 イエス様の十字架への道行と、裁判、周りの人々から、今日私たちは自らを省み、私たちは、ただイエス・キリストを信じる信仰に立つ者であることを再確認し、キリストこそが喜び、キリストこそが救いであるという、愚直なまでの聖書信仰に立つ者とならせていただき、聖霊の力を豊かに受けて歩む者となりたいと願います。