6月4日三位一体主日礼拝説教「愛、恵み、交わり」

聖書 創世記1章1~8節、コリントの信徒への手紙二・13章11~13節

三位一体主日のこと

今日は教会の暦で「三位一体の主日」です。キリスト教の始まりはイエス様と一緒に行動した弟子たちがイエス様の教えとしるしを見聞きし、十字架で死に、復活して天に上げられたイエス様こそ神の御子であり、神さまが約束された救い主だと理解したことがきっかけでした。そこには聖霊が降るという出来事がありました。そして弟子たちやパウロに始まり教会の父と呼ばれる初代教会の司祭たちによって、イエス様を救い主とする信仰が形作られてきました。

私たちが信じる神さまは、イエス様の父である神と、イエス様と、聖霊。この三つの存在が唯一の神であるというものです。三つの存在でありながら唯一の神というのは人間的には理解できないことだと思います。しかし神がこのようなお方だと分かったときに、私たちに救いが訪れて、私たちは罪から救われて、神さまのもとに自由になったということがわかってきます。

神の救いの歴史

本日のコリントへの信徒への手紙Ⅱの13章13節には「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」という言葉が書かれています。この言葉は礼拝の最後に牧師が祝祷で告げる言葉で、とても大切な言葉です。礼拝に参加した人は牧師も含めて、この言葉によって神さまから祝福を受け、この世の日常へと出て行きます。ここが私たちの帰る場所であり、ここから神さまに祝福されて日常での働きを担います。その働きとはお金を稼ぐことではなく、自分にしてもらいたいと思うことをすることであるというのがイエス様が教えてくださった働きです。

父なる神さまは人間を救うために旧約の時代にユダヤ民族を選ばれました。しかし旧約の歴史を聖書で辿ってみますと、神から離れて不平を言い、互いに争う民とご自分の元に帰るように諦めることなく人間に寄り添う神との関係が見えてきます。人間に入り込んだ根源的な罪は人間を神から背けさせようと誘惑します。イエス様はその根源的な罪から私たちすべての人間を解き放ち、救い出すためにこの世に来られました。このことが新約聖書に記されています。

さて、聖霊について、聖書はどのように語っているでしょうか。パウロの手紙から復活のイエス様、キリストと聖霊のことについて見てみたいと思います。今日は聖書のいろいろな箇所を紹介しますので、お聞きになっていただければと思います。聖書の箇所を確認したい方は後ほどホームページに説教の音声と文章が掲載されますので、それで確認していただければ幸いです。

創造の前からおられた聖霊とキリスト

パウロはイエス様が人としてこの世界でお過ごしになっていた時は、イエス様とその弟子を迫害していました。しかしそのパウロはダマスコ途上でキリストに出会い、回心して、熱心なキリスト伝道者になりました。彼によって作られた教会がマケドニアやギリシアに沢山ありました。パウロはコリントの信徒への手紙一の1章24節で「キリストは神の力、神の知恵です。」と記しています。これは地上を歩かれた完全な人であるイエス様が完全な神であることを示しています。

またローマの信徒への手紙8章9節から11節には「神の霊」や「キリストの霊」、あるいは「キリストを死者の中から復活させた方の霊」という言葉があって、キリスト者の内におられる霊が個別の存在である私たちでありながらキリストと不可分であることが記されています。この個所でパウロはキリスト者に対して「これらの霊があなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」と告げています。私たちは先日の礼拝で、死には3つの種類があることを聖書から知らされました。生きたままでの死と、一切のものから離されてしまう肉体の死と、そして永遠の死です。キリストはこの死からも私たちを解放してくださいます。この世界を造られた神にとって生と死は乗り越えられない隔たりではないからです。これを私たちに引き寄せて考えるならば、私たちは復活の希望によって死の恐怖を乗り越えることが許されているということになります。聖霊が私たちに宿るとこのような形で私たちは生かされるようになるのです。

聖霊は世界の創造の時から存在していました。「神の霊」について旧約聖書では複数の箇所に記されています。先ほど読まれました創世記1章1節から8節の中にも書かれていました。2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。神が世界を創造される時に神の霊はすでにおられたのです。

他にも霊について書かれています。詩編51編13節には「御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください」という祈りの言葉があります。またダビデが神を讃えて詠んだ詩編139編7節には「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう」と霊による神の愛からダビデが離れることがなかったことが記されています。私たちもそうです。私たちがどこに居ようとも、霊は私たちをつかまえて離しません。私たちも神の愛から離れることはないのです。私たちが離れようとしても、神は霊を私たちに送って私たちをグッとつかんで私たちを救いへと導いてくださる。「一度や二度の失敗がなんだ。あなたが悔い改めれば私はあなたを生かしてあげよう。」と、そう神はおっしゃるのであります。

先週は洗礼式があり中村亜美姉妹が洗礼を受けられ神の民の家族になりました。その洗礼式の中で私は聖霊を降してくださるように祈る祈りをささげました。それはイザヤ書11章2節の御言葉であります。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」という御言葉です。この御言葉のもとに、中村亜美姉妹に知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊が降るように祈ったのです。

また、エゼキエル書2章2節には「彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。」という言葉があります。霊が預言者エゼキエルに宿り、エゼキエルが預言を語り始めたことが記されているのであります。

それではキリストは神の創造の時におられたでしょうか。私たちが良く知っているキリストは人となられたイエス様であります。それは2000年ほど前のユダヤにマリアを母として生まれたお方であります。そのお方は創造の前からおられたお方なのかどうか。

まず新約聖書のヨハネによる福音書1章1節を読みます。ここには「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言は神であった。」と書かれています。この言こそイエス様として人となる前に神としておられたキリストです。創世記1章3節に「神は言われた。光あれ。こうして、光があった。」と書かれています。この言こそキリストです。

このことが真実かどうかを問うことに意味はありません。真実かどうかは確認できる事柄にしか当てはまらないからです。ヨブは自分が理由もなく苦しめられているときに、何とか私を助けてください、と言う祈りをしていましたけれども、そのうちに、友人たちと論争している間に、「神はこのようなお方だ」、「いや神はこのようなお方ではない」といったように、まるで自分が神をすべて知っているかのような議論をしてしまい、遂に神はヨブに対して「お前は何者か」という声をかけられました。確認できない事柄があるのであります。そのことを私たちは忘れて、知っているつもりになってしまう。しかし、実は秘密ミュステリオンというものは今もあるのであります。聖書に書かれていることで私たちが確認できることはそれほど多くないけれども、しかし、ただひとつ言えることがあります。真理であるということです。真理とは何か。それは私たちを自由にしてくれるものです。「キリストは世の初めからおられる。神が言(ことば)をもってこの世を造られた」。そのことを聞いたときに、初めて私たちは自分の存在の根源を知るのであります。私たちは根無し草ではない。私たちは偶然生まれてきたのではない。神は私たちを必要な時に、祝福してこの世に創造されたのであります。神の御旨に従い、キリストであるイエスがその言葉によって私たちを創造されたのです。

信じるならばこの世は目に見えるものだけではなく神の意志によって成っていることを知り、信じないならばこの世は見えるものだけでなっていると知ることになります。それは生き方や人の存在の根本理由にまで関わる事柄です。イエス様は随所で「あなたはこのことを信じるか。」、「あなたは私を信じるか」と問われます。私たち一人ひとりにこの問いが投げかけられています。私たちはそれを自分の意志で信じるように向けていく。そしてそれは神がそのようにしてくださいます。

「この世は言によって成った。私たちは言によって造られた。」

このことは私たち一人ひとりが信じる事柄であります。キリストも聖霊も世界創造の前からおられ、今日もなお、三位一体の神として働かれておられます。

ひとつにする無償の愛の交わり

三位一体の神は神の愛、それは互いに見返りを求めない愛である無償の愛ですが、この愛によってお互いが一つとなっています。まったく相違がない。私たち人間ではそれはとても考えられない。私とあの人とがまったく会話を交わさなくても同じ考えであり、同じことをしようとするというのは、私たち人間ではありえないのですが、三位一体の神はそのようなお方であられます。だからこそ三つの存在であってもひとつであるのです。そこには無償の愛が交わされている、そのような交わりの中におられるのです。

この神の愛に私たちも招かれています。だからこそ私たちは神の子とされたのです。もちろん不完全であります。神と一体となりたいと思いつつも、残念ですけれども罪の誘惑にさらされている私たちでありますが、だからといって諦める必要がないというのが神さまのメッセージなのであります。「あなたは罪を犯す存在かもしれないけれども、決して諦める必要はない。私が生かしてあげよう」とおっしゃってくださっているのであります。

パウロはコリントの信徒への手紙一の13章11節で、この交わりの中に招かれた私たちに、「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。」と勧告しています。これらは神の愛の交わりに私たちが招き入れられているからこそ可能になるのであって、私たちが神の無償の愛を忘れて、それぞれの努力でこのことを成そうとしても実現することはありません。

私たちはお互いのことを神の家族の一員である自覚をもって兄弟姉妹と呼びます。それは私たちが兄弟姉妹にふさわしい愛を持っているからでしょうか。いったい私たちはイエス様が言われるような意味で兄弟姉妹として愛したことがあるでしょうか。この問いは厳しいものです。これに対して、私たちが私たちの愛を根拠とするならば、私たちは兄弟姉妹としての交わりを持っているなどと言うことはできないでしょう。

しかし私たちは神の家族であり、兄弟姉妹です。この交わりは変わることがありません。なぜならば、復活のイエス様、キリストが私たちを「私の兄弟、私の姉妹」と呼んでくださるからです。そして聖霊がこのことを思い起こさせてくださるからです。三位一体の神の愛の交わり、この無償の愛の交わりに招かれて、私たちも無償の愛によってお互いが交わるならば、私たちの愛では実現しない兄弟姉妹の交わりが豊かにおこなわれ、パウロの勧告の言葉が実現するのであります。

キリストと共なる聖餐の交わり

今日はこの後、復活の主、キリストを真ん中にいただいて、聖餐の時を持ちます。キリストがすべての人に招きの言葉をかけておられます。この招きの言葉に応えて洗礼を受けた神の家族は愛の交わりの見える形としての聖餐を囲んで、パンと杯にあずかります。私たちは神の愛の交わりの中に招き入れられて兄弟姉妹の交わりへと高められていくのです。