7月30日礼拝説教「神の愛に限りなし」

聖書 創世記29章15~28節、ローマの信徒への手紙8章31~39節

ローマの信徒への手紙に語られている「福音」

私たちは6月11日聖霊降臨節第3主日の礼拝からローマの信徒への手紙に聞いてきました。今日はパウロが福音について語るまとめの部分ですので少し振り返りたいと思います。

4章ではアブラハムに与えられた約束を通して、神さまの言葉は約束の言葉であることが語られていました。そして5章ではキリスト者は神さまを信じる信仰によって神さまとの間に平和を得ていることを知りました。6章ではパウロは、キリスト者はバプテスマを受けて古い自分が死に、新しい人に生まれたのだから罪の中に留まることはできない、聖霊によって私たちは神さまの御心を実現する方向に向けられる、と答えています。

ところが一転して7章では、パウロは人間の実存の問題を語ります。洗礼を受けても、いまだに自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている存在であることを私たちに突きつけます(19節)。パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)となげきの言葉を語りました。ここには希望はないように見えますが、パウロは7章の最後に唐突に「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25節)と告白するのです。この告白の意味は8章で説明されます。

8章でパウロは、みじめな存在である私たちが、「神の子」の身分とされたこと、だから世に勝つ存在であることを教えます。それは神さまが私たちに聖霊を降してくださったからです。聖霊は神の愛とキリストの恵みを私たちに覚えさせてくださいます。聖霊を受けた私たちは、罪の誘惑を受けて、心が引き裂かれるような状態にあったとしても、永遠の命をいただき生かされるのです。

パウロは私たちが聖霊を受けていれば、私たちは神さまを「アッバ、父よ」と呼ぶと語ります。つまり私たちは聖霊を受けて神の子の身分とさせていただいたのですから、私たちは、神さまは遠くにいて私たちを裁く恐ろしい得体のしれない存在ではなく、近くにいて私たちを愛し導いてくれるお父さんやお母さんであることを知ったのです。畏れ多いことであります。しかし神さまはキリストによって私たちをそのようにしてくださいました。

神さまは信じる者の味方

本日の箇所の最初にあるのは「神さまは私たちの味方である」ということです。31節は仮定文で書かれていますが、パウロはこのことを確信しています。ですから聖霊を受けた人に敵対する者はいないと断言します。これも表現は疑問文ですが、確信をもって真理を語る場合の文章技法で書かれているものですので、非常に強い断言ということができます。そう断言できるのはなぜか。それが32節に書かれています。「私たちすべてのために独り子イエス様さえ惜しまずに死に渡された神さまはすべてのものを私たちに与えてくださる」からです。このように圧倒的な神さまの愛を受けて、私たちは神さまがすべてのものを与えてくださることを期待することができるようになりました。

パウロは「神に選ばれた者たちを訴える人はいない」と、強く私たちに伝えます。「人を義としてくださるのは神なのです。」と書かれていますが、直訳すれば「神は人を正しいと認め、解放するお方」となります。神さまはキリストを十字架の死に渡して私たちの罪を贖わせて、私たちを正しい者と認めてくださり、罪から解放してくださったのです。私たちの努力ではなく、ただ神さまの愛によってこのことがおこなわれた。人はこの事実を知れば神さまに立ち帰るほかはなくなります。

34節でパウロは「私たちを罪に定める者はいない」と断言します。キリストはよみがえられて神の右に挙げられ、私たちをすべての告発から守ってくださいます。生けるキリストの贖いと執り成しこそが救いの確信の基礎です。

35節でパウロは「キリストの愛から私たちを引き離す者はいない」と断言します。イエス様が私たちを愛してくださった。弱い者、汚れているとされた者、精神や肉体の不自由な者など、生きていても役に立たないと周りも本人も思う人をだれ一人お見捨てになることなく、はずれた道を歩んでいる者が一人でもいれば探し出して連れ戻されるお方がイエス様です。この世にはいろいろな苦難があります。バプテスマを受け神の子とされた人々にも苦難は襲いかかります。さらに福音を証しすることによって更なる苦難を受けることだってあります。それでもキリストの愛は私たちを捉えて離しません。

35節には旧約の神の民の苦難が描かれています。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」。これは詩編44編23節の言葉です。「あなたのために」はイエス様の降誕によって「イエス様」のことであることがわかりました。神の子とされた人たちはイエス様を伝えることにおいて死にさらされて、犠牲の羊のように見られています。

しかし、私たちは輝かしい勝利を収めています。キリストの愛は苦難の中にあって私たちを守り、それに打ち勝たせてくれる力なのです。どのような苦難も、どのようなこの世の力も「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

信じる者の苦難

キリスト者を攻撃する言葉で一番傷つく言葉は「キリスト者のくせに」という言葉ではないでしょうか。私たちが口にする言葉が気に入らない時の攻撃の常とう手段はこのような言葉です。そのような言葉を聞く時、私たちは怯んでしまいます。なぜなら自分は決して聖い存在ではないと自覚しているからです。

しかしパウロはそのようなキリスト者に語ります。「あなたには神さまが味方だ。」「この世のどのような力もわたしたちの主イエスさまによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」と語ります。このことを信じるのは難しいことではありません。イエス・キリストが私たちのために十字架にお架かりになって罪をすべて引き受けて死なれたということ、そして神の愛によって再びよみがえられたということを思い出せば良いのです。

神さまは私たちが聖く、立派であるから私たちの罪をお赦しになったのではありません。いまだに神さまから離れてしまう私たちであっても神さまは独り子を私たちのために与えて罪を赦してくださった。だから私たちの罪は赦されたのです。

この世の嘲りや蔑みや奇異な目で見られることにつまずく必要はありません。神さまが味方なのです。神の子とされた者を裁くことのできる者はいません。私たちは肩ひじを張ることなく自然体でいれば良いのです。キリストが私たちを執り成していてくださいます。

苦難と愛

この世には苦難があります。キリスト者と言えど苦難を避けることはできません。しかし私たちを愛してくださる神さまを私たちが愛するならば、その苦難は大したことではないことに気づきます。

ヤコブはラケルを愛していたので、伯父のラバンのところで7年間の労働に耐えました。しかしヤコブはそれがほんの数日のように思われました。愛する者のためには苦労も危険も厭いません。神さまが味方であり、キリストが執り成しをしてくださっている。私たちはこの神をお父さん、お母さんと呼び、もっともっと愛することができます。聖霊がそのようにさせてくださいます。

私たちの労苦は一人ひとり違うものです。しかしひとつだけ同じものがあります。それは福音を伝える時に受ける非難や冷笑や無関心です。パウロはそれをも喜びだと伝えます。パウロこそが福音を伝えるためにあらゆる苦難にあった人です。しかしパウロはいつも喜びにあふれていました。福音を伝える喜び、キリストと共に苦難を担う喜びにあふれていました。

立派じゃなくてもOK

私たちの人生は長いようで短い。しかしその短い人生を充実して生きるならば、それは喜びの人生であるといえます。無関心も迫害も奇異な目で見られることも、立派な生き方ができないことも、問題ではありません。ただキリストが教えてくださった福音に生きること、神さまをお父さん、お母さんと呼ぶほどの親しさで愛することによって、私たちの労苦は喜びに変わります。

どんな力も存在も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。