9月3日礼拝説教「神の愛に偽りなし」

聖書 出エジプト記3章13~15節、ローマの信徒への手紙12章9~21節

パウロはなぜ「愛には偽りがあってはなりません」と勧告したのか

私たちは6月11日の主日からローマの信徒への手紙を読み進めています。11章までは信じるということの意味および救われて新しい生に生きるということの意味を聖書の御言葉を通して聞いてまいりました。そして12章からはキリスト者の生き方についての勧告を聞いてまいります。ローマの信徒への手紙12章9節でパウロは「愛には偽りがあってはなりません」と勧告します。この愛はギリシア語でアガペー、無償の愛です。無償の愛は神さまの愛です。この愛に偽りはありません。神は真心から、本心から私たちを愛しておられます。そのことをお示しになった出来事が御子イエス様の十字架の死であり、甦りです。その様な愛に偽りなどありません。

しかしながら私たちは神さまの無償の愛を間違って受け取ってしまう可能性があります。どう間違って受け取るかといえば「キリスト者とはこのようにあるべき」というイメージをつくりあげて「そうであるように振るまう生き方」です。パウロはそのようにならないようにという願いを込めて「愛には偽りがあってはなりません」と私たちが陥りやすい間違いを指摘しています。そしてキリスト者の生き方について勧告しています。

パウロは自分が神の高みにいて私たちを教え諭しているのではありません。心から願って勧告しています。私たちが生きるために必要なことを心から訴えているのです。もし9節後半以降に書かれていることを、すべての人がひとつも実行しなかったとしたら、人間は生きることができないでしょう。

世界のあちこちで戦争や紛争が起きているように悪がまだ力を振っています。砲撃によって町は破壊され、人が死に、傷つき、悲しみが広がっています。このような状況を「良し」と思っている人はほとんどいないでしょう。しかし国や人々を分断するような憎悪を煽っている人たちがいます。私たちはそのような人たちの言葉に踊らされて不安を掻き立てられてはならないのです。

悪を憎み善から離れない

9節後半に「悪を憎むように」と勧告されています。さて、私たちは本当に悪を憎んでいるでしょうか。悪が良くないことは誰でも知っています。それなのに私たちは引きずられるのです。悪は嫌だと心の底から言えるか、と言われればたじろいでしまうのではないかと思います。パウロは自分自身を含め人間の弱さを知っています。それでパウロは他の手紙の中では「避けなさい」という言葉を使って勧告しています。悪を避けるのであれば私たちにもできるのではないかと思います。

それに続いて「善から離れない」と勧告されています。「離れない」というのは「ぴったりとくっつく」ということです。それぞれの人が悪の誘惑に負けた経験を持っておられるのではないかと思います。少なくとも私はそのように告白しなければなりません。これは悪の力が大きかったということもあるでしょうが、善に結びつくことが弱かったからだということができます。善を知っている程度ではだめで、強力な接着剤で貼り付けられているように善から離れられないようになっていなければなりません。

死刑になるような罪を犯した人を、人は、愚かな人間だと笑うかもしれません。しかしその犯罪人も結果がどうなるか分からなかったわけではないのです。それでも悪に負けてしまった、誘惑に抵抗できなかったのです。意志が弱かったとか、環境が悪かったということもあるでしょう。しかし一番大切なことは悪と善との間で孤独な闘いをして破れたということではないかと思うのです。イエス様を信じる生活は、救いの恵みによって、善に結び付けられています。それはただ善を求めるというようなきれいごとではなく、はがされれば皮が裂け、肉が千切れるほど善に貼りついているということです。キリストに愛され、神に愛されている生活です。この愛に偽りはありません。

兄弟愛による交わり

それに続いて10節からさらに具体的な勧告がなされています。「兄弟愛をもって互いに愛する」と勧告されています。この根拠は何でしょうか。そのことが分からなければ愛していたのに裏切られたといった思いに駆られることあ起きるでしょう。この根拠は「私たちの信仰生活が主においてひとつである」ということにあります。少し前の御言葉ですが、5節にあるように、私たちはキリストに結ばれて一つの体を形づくっており、互いに体の部分だからです。私たちはキリストに救われた者、すなわち「キリストが私たちに代わって死んでくださったことによって生きることができるようになった者たち」です。教会の中で出会う相手は、キリストがその人のために死んで生きる者としてくださった人です。パウロは「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と勧告しています。この尊敬はキリストが死なれたことに基づく尊敬であり、その人の才能や能力や業績や人柄によるのではありません。

そこで次の言葉が生きてくるのです。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」。信仰生活は聖書に親しみ祈りをしなければならないことだということは私たちには分かっていることです。聖書と祈りによって私たちの中に灯されたともし火が消えないで燃え続けるように、神の愛を受けるのです。ちょうどエマオの旅人がイエス様の言葉を聞いて心が燃えたように、私たちも聖書を読み祈ることによって霊に燃えるようになります。私たちは生きる者とされるのです。言葉を変えて言えば、「生きる意味を知る者とされる」のです。

「希望を持つ」というのは神に信頼すると言い替えて良い言葉です。私たちが自分の力で何事かを解決するといった、自分の力や周りの人々の働きに期待する希望ではなく、神が解決してくださることを信じて待つ希望です。ですから苦難があっても耐え忍ぶことができます。

13節に「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」と勧告されています。ここで聖なる者たちとはキリスト者のことで、生活に困窮している人を助けることが勧められています。パウロの時代には教会内部での相互扶助が大事な事柄でした。今ではこの勧告は教会の中に留まるのではなく、すべての人に向けられていると理解した方が良いでしょう。私たちの献金の一部はそういった外部の人たちを助けることに使われています。これをもっと増やしていけるように祈り続けたいと思うのです。それは私たちが突然困窮に陥った時に感じるであろう喜びを想像すれば分かってくるように思います。

迫害する者のために祈る

14節以降にも大切な勧告がなされています。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」と勧告されています。迫害する者のために祈るということは容易なことではありません。迫害する者と対決し回心させたいと思うのですが、回心の出来事は私たちが起こすことのできるものではありません。神さまのみがそのことを成し遂げることがお出来になります。だから迫害する者が自分の罪を知り悔い改めて回心して祝福を受けることができるように祈ることが私たちの為し得る最大の務めだと思います。19節には「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」という旧約の申命記32章35節の言葉が引用されています。神は公正な義のお方ですから不義に対して怒りを現わされます。私たちはこの神に裁きを委ねて平安のうちにいなければなりません。そうでなければ私たち自身が罪を犯してしまうことになるでしょう。

それに続く「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」は箴言25章21節と22節の引用です。この言葉の前半は理解できるのですが、後半はどう理解すればよいでしょうか。これには2つの解釈があります。ひとつは敵に対する神の裁きの言葉であるというものです。もう一つは、弱った時に親切にされた敵は頭に炭火を積まれたようないたたまれなさを感じるというものです。このどちらの解釈であっても、敵が神の裁きによって回心することの可能性を神の愛の内に見出し得るということだと思います。

まことに大切な言葉が15節に書かれています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ということばです。喜びは分かち合えば大きくなります。そして悲しみは分かち合えば小さくなり慰められます。もしこのような友がいなかったならば私たちの生活はなんと寂しいものになるでしょうか。一人で生活することができたとしても喜びや悲しみは訪れます。それを分かち合う友がいなければ寂しく空しいのです。共に喜び、共に泣くことを大切にしたいと思います。

神の愛に偽りはない

悪の誘惑は非常に強いものであります。もし私たちが御言葉から離れ、神の愛から遠ざかるならば悪はやすやすと私たちを打ち負かすでしょう。しかし神は出エジプト記3章14節にあるように「存在の根源」であり、いつも私たちと一緒にいてくださいます。そして私たちには御子イエス様がおられます。イエス様は私たちの信仰がなくならないように祈っていてくださり、悪から救い出してくださいます。私たちはこのことを祈り求めることができるのです。

存在の根源である神が私たちを愛してくださっています。この愛に偽りはありません。パウロは私たちが生きていくために必要なことを勧告しています。この勧告をすべて実行することができるならばいうことはないでしょうが、そのようにできない不完全さを持ち合わせているのが人間です。それでもなお、私たちが生きる意味を知ってこの人生を歩んでいくために、自分を低くして神を第一とし、パウロの勧告に従おうと努力することはできます。存在の根源である神が私たちのすぐそばにいて私たちを導いてくださいます。