9月17日礼拝説教「我ら主のもの」

聖書 出エジプト記14章30節~31節、ローマの信徒への手紙14章1節~12節

高齢者の意識

人は誰でも死について考えるものですが、高齢になれば一層、死を身近に感じるようになります。昨今では高齢者が全体の3割に達するほどになり、その存在がクローズアップされています。すべての年代に対する高齢者のイメージ調査によると、マイナス面では「心身が衰え健康面での不安が大きい」、「収入が少なく、経済的な不安が大きい」、「周りの人とのふれあいが少なく、孤独である」というイメージがあり、プラス面では「経験や知恵が豊かである」、「時間にしばられず、好きなことに取り組める」というものがあります。

実際に高齢者になってみると社会的な責任から解放されて自由になった反面、生き甲斐がなくなったと感じるのではないかと思います。会社一筋の人たちは退職後に新しい関係や生活のリズムを作り上げるのが大変ではないかと思います。キリスト者は退職後もそれまでと変わらずに毎週日曜日の礼拝と交わりを中心とした生活が続きますから、生活が一変するということがないのは有難いことです。

今日はローマの信徒への手紙14章1節から12節の御言葉をもとに高齢者の生き方を考えてみたいと思います。しかしながらこの生き方は高齢者にのみ当てはまるというのではなく、すべての人に当てはまります。

私たちは何者か

私たちは肉親やお世話になった人の死に出会うときに死を意識するようになります。事故や病気のために肉親の死に出会った人はそれから死を意識して生きていくそうです。また一方で私たちは自分は何者なのか、どうしてこの世界に生きているのかを考える時があります。

8節に書かれている言葉「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」というのは、私たちがどのような存在なのかを教えてくれます。これは私たちが自分で望んでこの世界に生まれたのではなく、また望んでこの世界から去っていく存在ではないということを表しています。

神さまを知らない人にとっては自分の存在が何によって保証されているのかという疑問は心の奥底にある得体のしれない疑問でしょう。私たちには生きているという事実だけがわかるに過ぎません。そうすると死は恐怖でしかありません。なぜ生きているかが分からなければ死ぬということが分からないからです。

ところが自分が自分のものではなくて神さまのものであるということが分かれば、死は神さまが私たちをこの世界から神の御国に招くことだということが理解できるようになります。このことは死の恐怖から解き放たれるということであります。

「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」という言葉が生きる原動力となるためには、この言葉を信じることが必要です。どうすれば信じることができるようになるでしょうか。それは9節に書かれている言葉にヒントがあります。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」という言葉です。キリストという言葉は私たちを救ってくださる救い主を表す言葉であり、それはイエス様のことです。私たちのためにイエス様は苦しまれました。私たちのためにイエス様は罪人として十字架で死なれました。私たちのためにイエス様は甦り希望を与えてくださいました。私たちのためにイエス様は今も父なる神さまに執り成してくださっています。

旧約聖書に記されている預言者イザヤの言葉に次のような言葉があります。イザヤ書53章の言葉です。少し長いですがお聞きください。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

この預言の言葉に記されている「彼」とはイエス様のことです。イエス様が苦しみを受け打ち砕かれたのは私たちの背きや咎のためでした。イエス様の受けた懲らしめによって人間は神さまとの間に平和が与えられ、私たちは死を含む多くの恐怖から解放されました。このイエス様を知ることによって私たちは神さまが私たちを造り、私たちは神さまのものであることを知ることができました。イエス様を救い主として受け入れるならば、私たちが生きているこの存在の根源は神さまにあるのであり、従って私たちは神様のものであることを信じることができるようになります。それによって私たちは死の恐怖から解き放たれ、愛の共同体の中に招き入れられるのです。

無償の愛の共同体に生きる

しかしキリスト者は自分が主のものであることを知って死の恐れから解き放たれても、完全無欠の人間になったわけではありません。神さまの無償の愛の交わりに招き入れていただきながら、互いに批判し合うことが起きないとも限りません。ローマの信徒への手紙のこの箇所には「信仰の強い人」と「信仰の弱い人」の両方に対する勧告が書かれています。「信仰の強い人」とは、2節と5節に書かれているように、何を食べても良く、お日柄に惑わされずに考えるキリスト者で、この人達はキリスト者としての自分の良心に従って生活している人と言えます。一方でその逆にいろいろな戒めや規則を守らなければならないと考えるキリスト者は「信仰の弱い人」と言えます。今日的な意味では、「信仰の強い人」とは聖書に書かれている言葉を互いに愛し合うということを基準にして理解している人で、逆に「信仰の弱い人」とは聖書に書かれている文字通りに生きようとしている人といえるかと思います。

パウロは信仰の強い人に対しては1節で、信仰の弱い人に対しては10節で、「相手の考えを批判してはならない」とか「裁いてはならない」と勧告します。なぜならばどちらの人にとっても9節にあるようにキリスト・イエス様が死に、そして生きたのは私たちの主となられるためだからです。

この主は私たちの上に君臨する支配者ではありません。イエス様がマタイによる福音書20章28節で「わたしは仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われたように、イエス様は私たちに仕える主です。そしてそのイエス様の生き方は私たちの手本なのです。イエス様はマタイによる福音書20章26節で私たちに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。」と言われました。このイエス様の言葉が私たちの生き方の基礎なのです。死を恐れず、召される日まで、この生が主のものであることを信じて謙虚に、そして希望を持って生きたいと思います。

死から目を逸らさずに、しかも死を恐れない生き方に生をまっとうする秘訣は「わたしは主のものである」、「主が私を導いてくださる」という信仰に堅く立つことです。