「復活についての問答」(2017年2月26日教会説教)

「 復活についての問答 」
出エジプト記3:13~17
ルカによる福音書20:27~44

 「死」ということ、私たちの人生の重大なテーマです。誰の人生の終焉も必ずそこに行き着くのですから。しかしそれであっても、いえそれであるからこそ、とても重く、恐れが生じ、日常の平穏な会話の中では殆どの人は避けて通る話題です。
それは、この時、イエス様の前に来ているサドカイ派の人々も普段は同様だったに違いありません。サドカイ派の人々というのは、「復活があることを否定していた」人々であったと、ルカはここで語っています。でも、力ある業と言葉で人々を引きつけるイエス様を前にして、「死の先にあると言われる復活」について、問いかけてみたくなったのではないでしょうか。
キリスト教信仰は、死を語り、さらに「復活」を語る信仰です。それは、イエス・キリストは十字架で死なれたけれど、復活されたからです。キリスト教信仰とは、復活されたイエス・キリストと共にある新しい命へと信仰によって移し変えられる、命の現実が変えられる信仰であるからです。イエス様が死なれ、復活されたから、信仰者も世の死を迎えるけれども、イエス・キリストの命と共に復活する。イエス・キリスト十字架と復活の命とひとつになる、イエス・キリストの十字架と復活に「貼り合わされた命」を生きるものとされるとでも言いましょうか。
 私たちの命の究極の希望はそこにあると、私は信仰によって望みを抱いています。

 しかし、確認しておきたいことは、聖書が語る「復活」とは、「生き返る」ということではありません。死んだ人がこの世の命へ復帰するということではありません。また、生き返って死ぬことが無く、永遠に生き続けるということでもありません。聖書の語る復活とは、肉体の死の先に、旧約聖書のダニエル書、またパウロの言葉によれば、死とはすなわち「眠りにつく」(ダニエル2:2、一テサロニケ4:15)ことであり、終わりの日に、眠りについた者たちが起き上がり、復活のキリストと共に、復活させられ、永遠にキリスト・神と共に生きる新しい命のことです。
 今日の聖書の箇所をお話しする前に、まずそのことを心に留めておきたいと思います。

 さてイエス様は、エルサレムに入られてから、ずっと論争に巻き込まれておられます。20章はじめは、神殿の境内で、祭司長、律法学者が「何の権威でこのようなことをしているのか」と論争を仕掛けてきました。そして、今日のところは、「復活があることを否定するサドカイ派」の人々からの問い掛けです。
ファリサイ派とサドカイ派は同じユダヤ教の中の宗派ですが、信仰のあり方が違います。それぞれの立場があり、属する宗派の考え方に則り、信仰を判断しています。しかしながら、宗派というものは、神が作ったものではなく、人間が作り出したものの考え方です。
ちなみにキリスト教も、大きな枝としては、東方教会と西方教会があり、私たちのプロテスタント教会は、西方教会と言われるカトリック教会の流れを継いでいます。さらにプロテスタントの中には、ルター派、カルバン派、メソディスト、バプテスト、等々の「教派」と言われるものがありますが、枝葉末節の理解の違いはあれど、イエス・キリストの十字架と復活にこそ救いがある、ということですべての教会は一致しています。キリストの十字架と復活が無く、また他のことに中心を移している教会があるとするならば、キリスト教会とは言えません。
 それに比べて、ユダヤ教の中身は随分ばらばらのようです。核となることは律法ですが、律法に於いて重きを置くところも、聖書の枠組もすべて随分違うようです。
 ファリサイ派は、律法の教えを中心とした人々であり、どちらかと言えば庶民階級。私たちの今持つ旧約聖書全巻と、それに加えた律法の細かい規則集を大切に持つ人々で、天使の存在を信じ、義人=義しい人は、終わりの日に復活するという復活信仰を持っています。
 復活信仰というのは、旧約聖書の時代のごく後期に顕されるようになった信仰と考えられおり、一番新しい書物と言われているダニエル書2:2「多くの者が塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」という言葉に根拠を置き、それ以降の聖書の中間時代と言われる時代の聖書外書物に受け継がれて行きます。復活信仰の背景には、ユダヤ人に向けての迫害の厳しさがありました。多くの人々が殺され死んでゆく悲惨のなかで、神が「復活」という、神と共にある命の真実をを啓示されるようになった信仰と言えます。

 それに対し、サドカイ派の人々というのは、神殿の祭司を中心とした人々で、ユダヤ教の特権階級とも言えます。神殿の中におり、ファリサイ派の人々の受けてきた迫害の影響をあまり受けて来なかった人々で、イエス様の時代、エルサレム神殿で、動物犠牲の祭儀を行うことを中心としておりました。また、犠牲祭儀は、モーセ五書と言われる、旧約聖書の最初の五巻、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の中に記されている事柄で、そのためこの五巻のみを信じており、他の書物は認めておりません。死者の復活ということについては、最初の五巻には書かれておりませんので、信じていませんし、ダニエル書に、天使が登場いたしますが、ダニエル書は認めておりませんので、天使の存在は認めていないということになります。
 そのようなサドカイ派の人々は、死の先のことをどう考えていたか、はっきりと分かり兼ねるのですが、復活信仰が広まる以前のイスラエルの人々は、人は死んだ後、自分の子孫と、子孫たちの記憶の中に生き続けると信じていたと申します。死んだ後、子孫とその記憶の中に生き続けるという認識が、今日の箇所のサドカイ派の人々の問いかけに結びついているようです。

「先生、モーセがわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』」と。
 この背景にあるのは申命記の25章に記されているレビラート婚といわれる律法の掟です。ひとりの男が結婚し、跡継ぎなしに死んだ場合、弟がいるならば、兄の妻だった女性は、弟と結婚をし、最初に男の子が生まれたら、その最初の子だけは少なくとも、亡くなった兄の子として跡継ぎにする、二番目からは自分の子どもにするという掟です。
 復活信仰が広まる以前のイスラエルの人々は、人は死んだら、自分の子孫の中に、そして子孫らの記憶の中に生き続けると信じていたということを、先ほど申し上げましたが、そのため、男性が子どもをもうけないまま死んだ場合は、彼の兄弟が彼の妻を娶り、彼女によって子どもをもうけることを義務づけられていたのです。続く問いかけはこうです。
「七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子どもを残さないで死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」
 この話は、当時の社会状況の中で語られている出来事ではありますが、現代的な視点からすれば、残酷な話だと思います。古代社会に於いては、女性は子どもを生むことが最大の祝福と思われていました。ですから、子を生めない女性は苦しみ、聖書には、アブラハムの妻サラをはじめ、サムエルの母ハンナの苦悩などが随所に記されています。
 しかし、この譬えの中の女性は、結婚生活の中で子が与えられない苦悩以前に、結婚したと思ったら夫に死なれ、それを七度繰り返すのです。はじめの結婚は、愛し合う中での結婚であったかもしれません。夫に先だたれた時は、悲しみ、悲痛な涙に暮れたことでしょう。しかし、愛する夫に先だたれた後は、世の決まりごとに則り、夫の弟の妻とされ、また先だたれ、そのまた弟の妻となり先だたれ・・・を繰り返し、遂に七回結婚をしますが、結局子どもを与えられないまま、子孫を残すことが出来ないまま死んでしまったというのです。
その女性自身の人格や心の思いなど無視した、人間が世で作り上げた制度の中の犠牲者とも言える女性の譬えと思います。7人と立て続けに・・・ということは、実際のことではないにせよ、それに近い生き方を強いられた女性は、実は多かったのではないでしょうか。

 復活を否定しているサドカイ派の人々は、復活それ自体が何を指しているのか、理解をしていないのでしょうから、「復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか」という問いかけの「復活の時」というのもどのように理解をしてここで語っているのか不明です。
いずれにせよ、世の制度と世の考え方、自分たちの正しさから抜け出ることの出来ない人々の問いかけと言えます。人間の掟が定めているような世界が、そのままどこまでも続くと思い込んでいるようです。娶ったり嫁いだりして、自分たちの手で血筋を守り続けることに執心し、それしか見えなくなっている。

 それに対し、イエス様はお答えになります。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と。

 このイエス様の言葉から、復活というのは、死という「次の世」の、そのまた後のことである、ということが読めます。そして、「復活するにふさわしいとされた人々」に与えられる、恵みであるということが分かり、またこの主の言葉は、ヨハネの黙示録の死と復活の理解と重なり合うものです。

 そして、このイエス様の答えには、サドカイ派の人の譬えの中の女性―それが具体的な同じ経験を持つ女性でないにせよ、人間の作った制度の中で、ひとりの人間としての尊厳を軽んじられ苦しんだ人は多かったに違いないことに対する、主の憐れみが殊更に語られているようにも、私には思えるのです。そのように、世に於いて、その人の尊厳を踏みにじられるような制度の中で生きざるを得なかった人に対し、主が語れることは、次の世に於いては誰のものでもない、「復活にあずかる者として、神の子だからである」と主は語られのです。

 さらにイエス様は不思議なことを言われました。
「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と。

 今日お読みした旧約聖書出エジプト記3章は、主なる神ご自身が、モーセに「わたしはある、わたしはあるというものだ」とご自身が生きておられることを顕された箇所でした。そして、アブラハム、イサク、ヤコブとは、旧約聖書に於けるイスラエル民族の祖先。とうの昔に死んでいる人々です。聖書はこの人たちの死をはっきりと告げています。しかし、イエス様は主をアブラハム、イサク、ヤコブの神と呼び、さらに「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われています。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、信仰によって、神と結ばれて世の生を終えました。彼らは「先祖の列に加えられた」とその死を語られていますが、その死は、信仰によって神と結ばれたものでした。神と信仰による交わりを持った者の命は、肉体は滅んでも、信仰に於いて、永遠に生き給う神との交わりを生きている、イエス様はそのことを語っておられるのでありましょう。
さらに語られる「すべての人は、神によって生きている」という言葉は、神によって造られた私たちが生きるべき命の本質を語っておられる言葉です。すべての人が、主と共に復活の命にあずかることを、復活するのにふさわしいとされることを、神は望んでおられるということでありましょう。

 来週は、洗礼式が執り行われます。本当に嬉しいことです。
 洗礼とは、生まれたままの古い自分に死に、新しくされる。主イエス・キリストへの信仰の告白と、罪の悔い改めによって、水による洗い受けて、イエス・キリストの十字架の死と共に古い自分に死に、主の復活に合わせられて、新しく神と共にある命に生きる、命の大転換の時です。人間の目には分かりませんが、神の領域に於いては、命の値が、命の置き所が変わる時です。
洗礼によって与えられた命は、神と共にある復活の命にそのまま繋がっていく命です。
その意味に於いて、この世の死は、滅びではなく、永遠という神の支配の中に、神と共に生きる者とされる、その道への大きなステップとも言えましょうか。イエス・キリストと共にある者にとって、死は決して終わりではなく、永遠の神の支配へと繋がってゆく道です。洗礼を通して、私たちは、永遠の神の支配へ入れられることへの希望を、新たにしたいと願います。

 最後に、地上での結婚の関係は、この御言葉に照らし合わせて、天上でも結ばれてるのか、という問いが、不安と共に残ると思います。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」と、イエス様は、地上の婚姻の関係の天上での継続をさらりと無きものにされているように読めるからです。
 聖書から読み取れることは、イエス様の言葉のとおり、「めとることも嫁ぐこともない」のではないかと私は読みとります。人間の作った、この世の制度は、神の完全な支配の中には必要がないからです。
 しかし、それだからと言って嘆く必要はありません。なぜなら復活の主イエスは、その復活の最初の姿を、イエス様を愛してやまなかったマグダラのマリアに、顕されたということを、さらに愛する弟子たちにその姿を顕されたということを、ヨハネによる福音書は告げているではありませんか。
 復活の主は、主を愛する人々に、その姿をまっさきに顕されました。主の復活の姿がそのように愛する者たちと共にあったのですから、私たちの地上で繋ぐ愛は、復活の時も、必ず繋がれる。そのことに信仰による希望を抱きたいと願います。

 しかしながら、主に結ばれた私たちは、次の世に於いて、もはや死ぬこともなく、天使に等しい者たちとして、きっとなによりも、ただ神を見上げ神をほめたたえているのではないでしょうか。
 イエス・キリストこそ、私たちの望み、希望。このお方は、聖書のすべてを通して証されている、わたしたちの主であられます。王ダビデも「わが主」と呼ぶお方。王の王、主の主。
 私たちは生涯をかけて、このお方を愛し、求め、生きていきたい、そして神と共にある、まことの命の喜びを味わい生きるものとならせていただきたいと願うものです。