「憐みの熱情」(2018年9月30日礼拝説教)

ヨブ記42:1~6
ヨハネによる福音書11:28~44

 今週の休日、何気なく家の書棚にずっと眠っていた、キェルケゴールの名著『死に至る病』を取り出して開いてみました。「死に至る病とは絶望である」さらに「絶望は罪である」ということについて、哲学的に論じているちょっと難しい書物ですが、極めてキリスト教信仰に根ざした論説であり、絶望とは自己の喪失であり、また自己のみならず、神との関係の喪失であるとし、絶望という病から救い出る唯一の対処法として、自己を神に明け渡すというキリスト教の信仰を挙げ、イエス・キリストを信じることこそが、死に至る病=絶望、さらに絶望するという罪からの回復に繋がるとそのように語っています。
 そしてその書物の冒頭は先週お読みいたしました、ヨハネによる福音書11:4「この病気は死で終わるものではない」から始まっておりました。恐らく、キェルケゴールはこの御言葉からインスピレーションを受けて、この書物を書いたのでしょう。ラザロの病はイエス・キリストによって「死に至る病」の逆、神の栄光を表す病、「死に至らない病」とされたのです。
 そして今日の御言葉を引用しながら、この著作の冒頭部分は続きます。「キリストが歩み寄って声高に「ラザロよ、出て来なさい」と呼ばわるとき、「この病は死に至るべきものでないことは無論十分確かである」、「復活にして命であるキリストが墓のもとに歩み寄るというそのことだけでもうこの病は死に至らないことを意味していないだろうか?」と記され、更に、「人間的に言えば死はすべてのものの終わりである、―人間的にいえばただ生命がそこにある間だけ希望があるのである。けれどもキリスト教的な意味では死は決してすべてのものの終わりではなく、それは・・・永遠の生命の内部における小さな一つの事件にすぎない―それゆえにキリスト教的な意味では、死でさえも「死に至る病ではない」、困窮、病気、悲惨、艱難、災厄、苦痛・・・それらのものも決してキリスト教的な意味では死に至る病ではない」。そのことがこの書物に前提されていました。
 これらの前提は、聖書の、またこのラザロの物語が語る「命」というものを的確に表していると思えました。
 先週の御言葉でイエス様は、マルタの信仰告白に応えて言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と。
 イエス様は、この時、キェルケゴールの言葉を借りれば、イエス様を信じることによって、世の命は死によって終わるとされているという絶望から救い出される、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる永遠の命のうちに於いて、世の死は永遠の命の中のひとつの事件に過ぎない、命は世の死によって終わるのではない、という真理を明らかにされたのです。

 今日の御言葉のはじまりでは、まだイエス様はラザロの墓には行っておられません。ベタニアの村に近づいてはおられましたが、まだ村に入らず、村の入り口におられました。神は人に近づかれる時、信仰の求めの強いところ、またとにもかくにも救いを顕される時には、驚くべき方法でその人自身に大胆に踏みこまれることがあることを知っておりますが、大概は、神は愛をもって私たちに近づかれながらも、人間の側が、神が近づいて来られたということに気づくのを待っておられます。気づいて、愛を、恵みと憐れみをもって近づいて来られた神に自分自身を向けて、人間が神の側に近づいてくる、そのような神の愛に対する人間の応答を待っておられるのです。イエス様がこの時、村の入り口におられ、マルタ、そしてマリアの出迎えをそこで受けたというのは、神が私たち人間の、神の愛に対する応答を求めておられるということでありましょう。

 先週の御言葉の後半は、マルタとイエス様の対話でしたが、今日の御言葉の前半は、マルタの妹であるマリアとイエス様の対話です。
 このマリアという女性、ルカによる福音書では、マルタは食卓などの世話に一生懸命になっている間、座ってイエス様の言葉にじっと耳を傾けていた、姉のマルタはそれを咎めたけれど、イエス様は、「大切なことはただひとつ。マリアはその良い方を選んだ」とそのあり方を誉めていただいた女性です。そのひたむきな熱心さ、また12章で語られるようにイエス様に高価な香油を塗ったということから、イエス様に従っていた七つの悪霊をイエス様に追い出していただいたと語られる女性であり、イエス様の復活の最初の証人となったマグダラのマリアと同一視される向きもあるのですが、プロテスタント教会の多くは、別人物と捉えています。同一人物か、別人物か、結論は出ておりませんが、このマリアは「ベタニア」というエルサレム近郊に家族と住む女性であり、マグダラのマリアは「マグダラ」というガリラヤ湖畔の村出身の女性であると語られていますように、地理的な明確な違いがあります。
 
 マリアはイエス様が来られたのを知っておりましたが、すぐさまイエス様のもとに行こうとはせず、家の中に座っておりました。そして姉のマルタの「先生がいらして、あなたをお呼びです」という耳うちに立ち上がり、イエス様のもとに行ったのです。マリアはイエス様の声に聞きました。このことは、マリアがイエス様の羊であることの証明なのではないでしょうか。「羊はその声を知っているので、(聞き分けて」ついて行く」(10:5)からです。
急に立ち上がったマリアを見て、そこに慰めに来ていたユダヤ人たちは、ラザロの墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追いました。
 マリアはイエス様を見るなり、足もとにひれ伏しました。そして、マルタと同様の言葉を申しました。「主よ、もしここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と。この言葉は、イエス様が居てくれさえすれば、「兄弟は死ななかった」、イエス様は病を癒してくださったに違いないという信仰の告白でもあり、また「何故居てくださらなかったのか」という忸怩たる思いも秘められた言葉でありましょう。それにしても、このひれ伏すという姿は、イエス様の前にひれ伏すしかない、自分を低くし投げ出すような、激しいまでの献身、信仰の姿です。マリアは自分自身の悲しみも苦悩もすべてイエス様の御前に投げ出しているのです。
 イエス様は、マリアのその姿、流す涙、一緒に居たユダヤ人たちの涙を見て、「心に憤りを覚えられ、興奮して」言われました。「どこに葬ったのか」と。
「心に憤りを覚えられ」という言葉は、鼻息をし、喘ぐ、一般的に不機嫌な表現として用いられる言葉です。立腹するという意味も込められています。また新共同訳では「心に」と訳されてありますが、原語ではプネウマ、「霊において」となっています。霊に於いて、イエス様は喘ぐまでに憤られた。感情的な怒りではなく、非常に奥深いところで憤りを覚えられたということなのでしょう。そして「興奮して」は、「かき乱される」というニュアンスです。
 イエス様はマリアたちの悲しみに共感し、涙を流された。それもありましょう。イエス様は私たちの苦しみ、悲しみをご自身の心として共にいてくださる御方です。しかし、それだけでなく、イエス様は悲しむマリアとユダヤ人たちの姿に、神の子としての霊の深いところで、ラザロの死を、ひいては、人間に定められている命の死という現実を激しく憤られ、ご自身をかき乱されたのです。それは、人間の定められている滅び、「死」というものに対する、激しい憤りだったのではないでしょうか。また死によって愛する人と分かたれることに絶望し、悲しむ人間の現実、世の死に定められている人間の悲しみ、絶望、またそのように定められている人間の悲しみ、それら自体への深い憤りだったのではないでしょうか。
 イエス様は涙を流されました。聖書で、イエス様が涙を流されたと語られているのは、ここだけです。イエス様は神が人となられた神の御子であられますから、イエス様から見た人間の命というのは、私たち人間が認識をしているものとは違います。罪によって神から引き離された人間の弱さ、現実、悲しさ。イエス様は、ラザロの死によって、嘆き悲しむマリアと人々を見て、罪によって死に定められた人間の悲惨に、深い憤りを覚えられ、ご自身をかき乱され、涙を流されたのです。

 そして、イエス様は再び深く霊に於いて憤りを覚えられ、墓に来られました。死に対する憤りをもって、主は墓に踏み入られたのです。そしてイエス様が、神の御子が、人間の墓に来られ、その死の傍らに立たれたのです。

 墓は、先週お話しいたしましたとおり、岩をくり抜いた洞穴で、入り口は石で塞がれておりました。
 イエス様は「その石を取り除けなさい」と命令をされました。
 マルタは申します。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と。非常にリアルな言葉です。それと共に、この言葉には、イエス様の言葉を信じ切れないマルタの心が表れています。それは私たちの心でもありましょう。私たちは人間の目に映る現実的なことをもってしか信じないという性質があります。この言葉を語るマルタは私たちなのではないでしょうか。
 遺体は、香油を塗って布を巻かれ、洞穴の岩の上に横たわらされます。入り口は岩で塞がれている。この時期は、春が近い時期だったのではないかと思われます。イスラエルの春が近い時期の岩穴の中ですから、かなり暑いのではないでしょうか。エジプトでは死者に防腐剤を施しますが、イスラエルではそのような習慣はありません。四日もたてば、遺体の腐敗は始まっている。香油の効果も無くなっている。当時の人々は、そのことをよく知っていたに違いありません。それが、ラザロの死の現実でした。
イエス様はイエス様を信じ切れない言葉を発したマルタに言われました。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。
 そして、人々が岩を取りのけると、イエス様は、天を仰いで言われました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」

 イエス様は、神を「父よ」と呼ばれました。この「父よ」という言葉は、私たちが唱える主の祈りの中で、「天にまします我らの父よ」という言葉と同じ言葉(パーテール)ですが、子どもが親を呼ぶ、非常に親しみを込めた呼びかけです。
 イエス様は、これまでも何度も「わたしと父はひとつである」ということを語り続けておられます。三位一体とは、三つの人格がひとつとしておられるということであり、父、子、聖霊、それぞれに人格をお持ちです。父と子、聖霊、それぞれに人格をお持ちであるということは、その本質、性質は同一であられても、存在される場所は違っており、その時々の「思い」というのは別々なのでしょう。ヨハネ5:30では、イエス様は「わたしは自分では何もできない。父から聞いたままに裁く」と語られました。イエス様は、父の声を聞き、イエス様は父なる神に祈られるのです。父子聖霊は祈りのうちに、三つの人格は愛の交わりにすっぽり入って、御業を成し遂げて行かれるのです。
イエス様は14:13で言われました。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と。三位一体の愛の交わりの中に、私たち人間もイエス・キリストを信じる信仰によって、その御業の中に繋がらせていただき、神の御業は私たちのうちに働いてゆく、そのことも憶えたいと思います。

 イエス様は、大声で叫ばれました。「ラザロよ、出て来なさい」。
 すると、死んで4日も経っていた、腐敗の始まっていたラザロの体は蘇り、手と足を布で巻かれたまま、顔は覆いで包まれたまま、墓から出て来たのです。
 死んだ人が蘇ったのです。

 ラザロは、イエス様不在の中、病によって息絶えました。しかし、イエス様が来られたことによって命の息を吹き返した。死んだ体が蘇ったのです。
 これは、イエス様が神であられるということの、7つ目のしるしでした。
 しかし、ラザロは蘇り、そのまま世において永遠に生きている訳ではないはずです。ラザロのこの後の死について、聖書は語りませんが、すべての人間がそうであるように、肉体の死に至った筈です。
 ラザロの出来事は、イエス・キリストがラザロの墓に近づいて来られたことによって、「そして「出て来なさい」という言葉によって、死から蘇らされた。死は終わりではない、永遠の命の中のひとつの通過点、ひとつの事件である、ということのしるし、永遠の命が与えられるということのしるしであったのです。
イエス様のおられる所、来られるところ、また私たちが呼び掛けに応えて駆け寄っていくところ、ひれ伏すところに、主なる神とのまことの交わりがあり、イエス様に私たちのすべてを投げ出し委ねた時、用意されている、神と共にある命、永遠の命があります。
この後、イエス様がすべての人の罪の贖いとして十字架に架かり、死を打ち破り復活をされた出来事を通して、すべての人が信仰により、罪の悔い改めにより、罪赦され、永遠の命への道が拓かれることになります。イエス・キリストにあって世の死は滅び、終わりという閉ざされたもの=絶望ではなく、神共にある永遠の命の希望へと変えられて行くのです。
 加えて申せば、永遠の命とは、私たちの世に於ける時間概念に於ける「永遠」を生き続けるということではありません。時も神が作られたものです。時も超えた、永遠と呼ばれる、初めであり終わりであられる神と共にある命のうちに、すっぽりと入れられることです。永遠というそれは、罪の無い、汚れのない、命です。それはどれほど素晴らしいことなのでしょうか。そして、世の死は、永遠の命の中のひとつの出来事、事件です。イエス・キリストにあって、世の死は終わりではありません。
 また復活ということは、世にあって苦難を受けている信仰者に対し、死の時だけでなく、人間の生の日々のひとつひとつの瞬間に於いても、イエス様の復活の命は働いていることを覚えなさいということも語られているのではないでしょうか。私たちは世にあって躓き、喘ぎ苦しむ時がある。しかし、イエス・キリストが共におられるならば、世にある限界は打ち破られるのです。絶望は希望に変えられるのです。

 このことを、イエス様は死んだラザロを蘇らせるというしるしを通して、世に明らかにされました。
 私たちも既に、この命、永遠の命をいただいています。このことをまことの希望として信じてください。私たちの世の別れも、悲しみも、艱難も何もかも、キリストにあって、望みを失うものではないのです。

 そのようにしてくださったのは、ただひたすら、神の愛。神の私たち人間に対する熱情とも言える愛の故でありました。
 イエス様は、「心に憤りを覚え」られ、涙を流されました。それは、死に定められており、別れに定められていると思えるすべての人間の悲しみ、絶望に対する憤りと涙でした。
 そして、イエス様はしるしとしてラザロを復活され、この後、自らが十字架に架かられ、復活され、人間の、滅びではない、永遠の命への道を拓かれることになります。
 このことをまことの希望とし、世の死は永遠の命の中のひとつの通過点、事件であることを心に刻みたいと思います。
 死は終わりではない。私たちの愛する人たちと、私たちは必ず合い見える時が、来るのです。最後に、ヨハネによる福音書3:16をお読みいたします。
「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」