1月22日礼拝説教「神の国は近づいた」

聖書 イザヤ書9章1節~3節、マタイによる福音書4章12節~17節

現実の不条理の中を歩まれるイエス様

先週私たちはイエス様が洗礼をお受けになる出来事を耳にしました。イエス様が洗礼を受けられたということは、私たち人間と同じ歩みをされたことを意味します。そして私たちが洗礼を受けるということは聖霊を受けて新しく生まれることであることを確認しました。

本日与えられましたマタイによる福音書4章12節から17節にはイエス様が悪魔の誘惑を退けられた後、宣教を始められたことが書かれています。イエス様が歩かれたエルサレムは聖地とされていて、世界中から多くの人々が訪れています。しかしエルサレムはキリスト教の聖地としてだけではなく、ユダヤ教やイスラム教にとっても聖地であり、現在のイスラエルはパレスチナ問題を抱えていて、まことの平和が実現している理想郷とは言えません。しかしイエス様はそこを歩まれました。

今日の世界を見てもいたるところで戦争や紛争が起きています。私たちの住む所も決して聖地ではありません。イエス様はこのような私たちの中にも歩みを進めてくださっています。

洗礼者ヨハネを先験者とするイエス様の歩み

マタイによる福音書4章12節から17節に聞いてまいりましょう。福音書記者マタイはイエス様がユダヤの地を歩まれた歩みを心を込めて書いています。12節「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」

別にどうということない文章のように思えますが、この文章は決して軽い内容ではありません。

「ヨハネが捕らえられた」と書かれています。この「捕らえられた」という言葉は特別な意味を持っている言葉です。イエス様が受難を予告された場面で語られた言葉に、「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。」という言葉があります。マタイによる福音書20章18,19節です。これはイエス様が捕えられ十字架につけて殺されるという歩みを予告された箇所です。ここに「引き渡される」や「引き渡す」という言葉がありますが、これが4章12節の「捕らえられた」と同じ言葉なのです。

また、この言葉は聖餐式の時に読まれるコリントの信徒への手紙11章に出てくる「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き」という言葉にも現れます。

「ヨハネが捕らえられた」とは「ヨハネが人の手に引き渡される」ことであり、それは判決を受けて殺されるということを意味していました。洗礼者ヨハネはこういう意味で、イエス様の先験者でした。洗礼者ヨハネはガリラヤ地方を治めていたヘロデ・アンティパス、当時の権力者に神の正義の声を発し、そのことによって捕らえられ、殺されてしまうのです。

洗礼者ヨハネは権力者だけでなくすべての人々の罪を明らかにし、そしてそこから立ち直るための悔い改めを告げました。そういう使命に生きた者としての当然の道として、死を受け入れたのです。「ヨハネが捕らえられた」という言葉の中に、洗礼者ヨハネを先駆けとして歩むイエス様の歩みが示されています。

英雄ではなく場所を持たない者としてのイエス様

また、福音書記者マタイはイエス様が「ガリラヤに退かれた」と書いています。「退かれた」というのは一旦、人々から逃れたという意味です。この理由は書かれていません。しかしイエス様が洗礼を受けメシア、すなわち救い主としてこの世に登場したことによって、当時の人々はイエス様をローマ帝国から解放する英雄としてのメシアと勘違いしたからであろうと考えられます。イエス様は英雄でも革命家でもなく、人の罪を背負い罪から救い出すために来られたお方です。そのために死に渡されることもご自分の使命として受け入れておられたのです。そこでイエス様はガリラヤに退き、神の御手にご自分を委ねることから活動を始められました。

それはこの世に場所を持たない者としてお生まれになり、飼い葉桶に寝かされるという貧しさの極致におられた幼子の時の道を歩み続けているということなのであります。

このように「捕えられた」とか「退かれた」という言葉を味わうと、ここにイエス様のこれからの姿とこれからの歩みとがすでに表されていることに気づきます。

暗黒の地を歩まれるイエス様

13節「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」。ここに故郷ナザレを「離れる」という言葉があります。この言葉は「捨てた」、「もう二度とそこに帰らない」という意味を持っている言葉です。故郷を離れた後、イエス様は「人の子は枕するところがない」という公生涯を始めました。イエス様は十字架の死に至るまで放浪し遍歴する旅を続けたのであります。故郷を離れて最初に行った町は「カファルナウム」でした。ここは暗黒の地と思われていました。辺境の町であり、異教の外国人アッシリアが占領した所で、絶えず異民族に支配されていました。ここにイエス様が行かれたのです。

権力の座を選ばず、捕らえられる危険を顧みず、神の真理を語り続けるためにそこにお住まいになりました。この地上に生きている人間に希望を与えるために。旧約聖書の預言者イザヤが「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と語ったように、闇の中を歩む民の所にイエス様は来られ、お住まいになられるのです。

それは今日でも同じです。戦争で傷つき死んでいる人々がいる所に、人権弾圧を受けている多くの国の多くの人々のところに、イエス様は来られ、お住まいになられます。

私たちは問います。「なぜ神が居られるのに戦争や人権弾圧が起きるのですか」と。神は私たちのこの問いに直接は答えてくださいません。しかし神の独り子イエス・キリストを私たちに引き渡されました。神は私たちの自由を奪って神の平和を実現させようとはしておられません。イエス様が私たちに与えられたこと、私たちのために一番低く貧しくなられたことに私たちが心を動かされ、私たちは闇の中を歩んでいることを知って、イエス様の光を求め、その光に向かって歩んでいくならば、まことの平和が、豊かな交わりが実現するのです。

悔い改めを許される私たち

イエス様がこの世に来られたこと。それは悔い改めを告げる鬨の声が上がったということです。イエス様によって、古い時は過ぎ去り、新しい時が始まりました。神さまは私たちが理解するよりはるかに私たちを理解しておられ、私たちが自分を愛するよりはるかに多く私たちを愛していてくださいます。

このお方は私たちの悩みをご覧になり、私たちの頑固さ、おぞましさ、不正、無秩序をご覧になります。このお方は私たちの偽りの確実さや悪しき行いをご覧になられます。イエス様がこの世に現れ神の国を宣教されたということは、神がこの地上でも私たちの神であり、私たちを助け、救い出そうとされたということであり、そしてそのことは実現したのです。

神さまは人間が自然を破壊してしまうような人間、生きるに値しない人間、すべてを招いておられます。私たちを神の食卓に招き、私たちにあらゆる善いものをお与えになります。私たちはそれを神に感謝して受け取るのです。

イエス様は言われます。「悔い改めなさい」と。

悔い改めることは神さまに立ち帰ること、神さまの方向に正しく方向展開することです。イエス様が神の国を宣べ伝えました。これによって私たちは神の国に招かれています。

悔い改めることは喜ばしい行為です。まったく明るいものです。悔い改めるとは、神の家に帰ること、神さまが私たちに用意してくださった故郷に立ち帰ることです。悔い改めるとは神の家に入ること、ホッと一息つくことです。それは最終的に生きることを許されることです。

私たちは悔い改めるべきなのではありません。悔い改めなければならないのでもありません。私たちは悔い改めることを許されるのです。

イエス様の言葉、イエス様の行いはそのすべてが福音です。福音を信じるとは、聖書に書かれていることや牧師の説教、あるいは信徒の証しの言葉をまさに神さまから言われたこととして受け入れ、私たち一人ひとりの中に取り入れることを意味しています。だから私たちはまことに自然に福音を受け入れ、悔い改めを赦されるのです。

福音を信じるとは感謝することです。それは喜びにあふれます。私たちが福音を信じる時、それは私たちがひとつの交わりの中に入(はい)ることを意味します。交わりとは英語でコミュニオン、共に神の食卓について食事を食べることです。それは信じることを許されているすべての人々の共同体の中にいることなのです。

私たちはイエス様が宣べ伝えた福音を信じ、悔い改めを許されて、まことの平和と豊かな交わりを求めて歩み続けたいと思います。