3月12日礼拝説教「命の水」

聖書 出エジプト記17章1~7節、ヨハネによる福音書4章7~15節

貴重な飲み水

愛する皆さん、主なる神は私たちを愛しておられます。受難節に入って3週目の主日を迎えました。イエス様は私たちに命の水を与えてくださるお方であることを今日の御言葉に聞いてまいりたいと思います。

今日の御言葉は旧約聖書も新約聖書も水にまつわる事柄が書かれています。地球上に存在する水のうち飲むことのできる水はわずか0.02%程度だそうです。もちろん地球の多くの部分を覆っている海水や北極・南極に氷の状態で存在する水も含まれますからこのように小さな数字になっているのですけれども、それでも多くの地域で水がなくて生活が困難な人々が大勢います。

私が実際にそのような人々を知ったのは神学生時代に研修でフィリピンのネグロス島にあるシリマン大学神学部に行ったときのことでした。この島には山岳地帯があり、そこにも人々が住んでいて教会も建てられています。私たちはそこに1泊しました。そこには井戸があって水があるのですが、それは飲めない水で、体を洗うことや農業用水としてしか使えないものでした。大学から運んできた特大の飲料水ボトルに入れた水を飲んで、食事は地元の人の家で頂くという生活を体験しました。わずか一泊二日の生活でしたが、飲み水がとても貴重だということを肌で感じました。私たちは蛇口をひねれば飲み水が得られることを当たり前に思っていますが、それがどれだけ有難いことかを知りました。

そこに生活する人々は雨水を溜めて飲料水として使っているのですが、貯水タンクに藻が生えたりボウフラが湧いたりして、とても安心して飲める水ではありません。しかしそこの人々はその水を沸かすなどして大切に使っていました。

日本は年間を通して安定して雨が降り、貯水できる山や河川に恵まれた国ですが、世界人口の半数は深刻な水不足に悩まされています。日本でも昔は干ばつになると水争いが起きていたことを社会の授業で習いましたから、水の問題は決して他人事ではありません。

主なる神さまを試す民

旧約聖書の出エジプト記17章にはエジプトを出たイスラエルの人々が主なる神さまの命令により、シナイ半島の南側にある「シンの荒れ野」を旅しました。聖書の巻末地図の2番目をご覧になるとその場所が山岳地帯で荒れ野だということが想像できるのではないかと思います。そしてレフィディムという場所に着きましたが、そこには飲み水がありませんでした。この場所は特定されていませんがおそらくシナイ山の近くであったろうと考えられています。インターネットで航空写真を見ると岩山が連なっている荒涼とした場所のようです。

人々はモーセに「飲み水を与えよ」と言って争いました。彼らは渇いていました。人間は食べなくても40日くらい生きられるそうですが、飲み水がないとほんの数日で死んでしまいます。地震などの救助活動で72時間が一つの限界とされているのもこのことによります。

モーセは主なる神に叫んで「わたしはこの民をどうすればよいのですか」と問いかけました。せっかく神さまの命令通りエジプトからイスラエルの民を救い出してきたというのに、人々は渇きのために死にそうになっていました。

すると神さまはホレブすなわち「シナイ山の岩の上で、その岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」と告げられ、モーセがそのようにすると水が出ました。

この出エジプト記に記されていることの本質は、人々が「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、神さまが導いておられることを信じられずに争いをおこしたことでした。水がないことは命を維持することができない事柄ですが、主に祈り求めることをせずに、主を試すことがいかに争いを生むかということを知らされます。

心の渇きと充満

新約聖書のヨハネによる福音書4章にはサマリアの女性とイエス様との出来事が書かれています。イエス様はユダヤ地方、すなわちイスラエルの南の地方で伝道した後に、故郷のガリラヤ地方に行こうとされました。サマリア地方はその途中のヨルダン川西側から地中海の間にあります。ユダヤ人は普通ヨルダン川に沿って移動することでサマリア地方を通るのを避けていました。なぜならサマリア地方の人々が主なる神ではないものを神として拝んでいたからです。もともとは同じ神の民だったのですが、外国から占領されて長い年月が経つ間に、サマリア地方の人々はそのようになってしまったのです。

イエス様はユダヤ人でしたが他のユダヤ人とは違って、サマリヤ地方を通ってガリラヤへと向かわれました。その途中でイエス様は旅に疲れて、喉が渇いて、ヤコブの井戸というところで休んでおられました。ヤコブの井戸は旅人が水を飲んだり、家畜に水を与える井戸でしたが、そこには水を汲むための道具がなかったようです。

そこにサマリアの女性がシカルという町から井戸に水を汲みに来ました。シカルの町からヤコブの井戸までは約1.5キロメートルもあったそうです。町があるということはそこには井戸があったはずです。しかし女性はシカルにある井戸ではなく遠いところにある旅人のための井戸に来て水を汲もうとしていました。この女性は町の中で隠れて暮らさなければならない事情を抱えていた人でした。19節に書かれているように、女性は5人の夫と上手くいかずに別れ、今一緒にいる男性は夫ではない人でした。だからシカルの町にある井戸を使わず、わざわざ遠いところにあるヤコブの井戸に人がいない時間帯を見計らって水を汲みに来ていたのです。

この女性にイエス様は「水を飲ませてください」と声をかけました。女性は驚きました。ユダヤ人はサマリア人を見下していたし、サマリア人はユダヤ人に敵対していたので、ユダヤ人はサマリアを通ることがなかったのに、そのユダヤ人はサマリア人である自分に声をかけた。それで女性は驚いたのです。

女性は逃げることもできたでしょうが、そこに留まり、男性に「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と問いかけました。

それに対してイエス様が答えられた言葉は「もしあなたが、神の賜物を知っており、私がだれであるか知っていたならば、あなたの方から私に頼み、私はあなたに生きた水を与えたことであろう。」という言葉でした。生きた水とは人を生かす命の水です。ここでイエス様はご自分が飲み水に譬えて生きる意欲や希望を与える存在であることを明かされました。その人は喉が渇いている弱い存在のお方です。神でありながら人間そのものとなられたお方のお姿がそこにあります。古代の神学者アウグスティヌスは次のような言葉を書き記しています。

キリストの強さがあなたを造った。そしてキリストの弱さがあなたを新しく造ってくださった。キリストの弱さが存在していなかった者を存在する者としてくださった。そしてキリストの弱さが、既に存在する者が失われることのないようにしてくださっている。キリストは、その強さを持って私たちを造ってくださる。その弱さを持って私たちを尋ねだしてくださる。

このような言葉です。なんと的確にイエス様のことを言い表わしている言葉だろうかと思います。イエス様は私たちの弱さを知っておられるお方です。

しかし、女性はこの言葉を理解することはできませんでした。イエス様ご自身がどのような者であるかを語ったのに、それに反応しませんでした。これは女性には自分のことを考えること以上の心の余裕がなかったからではないかと思います。

というのは女性は5人の夫と上手くいかずに別れ、今一緒にいる男性は夫ではない人といるという事情があるからです。彼女はまことの交わりを求めていたのにそれが得られない。真実の対話を求めていたのにそばにいる人と心を通わせることができませんでした。

この女性の渇きはイエス様を知らなかった時の私たちの心の中にあった満たされないもの、渇きと似ているのではないでしょうか。そして今も私たちがイエス様を忘れた時に感じる渇きではないでしょうか。私にはこの女性がイエス様の言葉をすぐには理解できなかったことを女性の無理解だとは思えません。彼女は私たちではないか、そう思えてなりません。

それで女性は男性の答えと関係ない質問をしました。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」というものです。女性はその男性に「主よ」と特別の尊称で呼びかけていますから、男性に特別なものを感じていたことが分ります。これは彼女が対話を始めたという徴かもしれません。

それにしても彼女はイエス様が言われた「生きた水」ということの意味が分かりません。イエス様が欲しいと言われた飲み水のことを思っていたとしても不思議ではありません。女性は「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」と飲み水のことを質問しました。

それに対してイエス様は「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と答えました。女性が欲していた、その真実の対話がここにあります。女性とイエス様の会話はかみ合っていないように見えて、女性はイエス様の言葉によって次第に自分の心の渇きに向き合うようになっていきました。

イエス様が与える水は「永遠の命に至る水」であり、その水を飲む者は決して渇かない。満たされるのです。イエス様は「永遠の命に至る水」、決して渇くことのない水を与えてくださるお方なのです。

女性はその答えを聞くや、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と願いました。イエス様を助け主として受け入れて、今まで真実の対話に、まことの交わりに渇いていた心を潤していただきたいと願いました。「ここにくみに来なくてもいいように」という願いは、シカルの町で人々に受け入れられ、人々を受け入れることのできるようになりたいという願いを表しています。

本日与えられた御言葉の少し先には、この女性がイエス様を信じ、町に帰ってイエス様のことを証ししたことが書かれています。彼女は町の人たちに「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と言いまわりました。この女性はすでにイエス様を救い主と信じていました。そしてシカルの人々は女性の言葉を聞いてイエス様の所に行き、イエス様の言葉を聞いてイエス様を信じました。イエス様が与えるものは「永遠の命に至る水」です。イエス様を信じて、その水を飲む者は心が満たされて、もはや渇くことがなくなります。

分断が渇きを固定する

また飲み水の話に戻るのですが、水は大切です。しかも自分一人が飲めればよいというのではなく、皆が渇かないようにしなければなりません。飲める水を無駄遣いしている人々はイエス様のように渇きの苦しさを知って、渇いている人々のことに思いを寄せることが必要でしょう。

シリマン大学神学部では山間部の人たちが飲み水を手に入れることができるようにすることを神学の実践としていました。彼らは工学部に働きかけて最新の技術を用いた簡易浄化装置を開発してもらい、また飲み水を山間地の人々に届ける経済の仕組みを実践しながら模索していました。経済的に成り立つ仕組みができれば自ずときれいな飲み水が供給されるようになるからです。

人類は遠い宇宙に衛星を送る技術を持ちながら、渇く人々を助けることに関心を持っていないように思えてなりません。それは隔ての壁と言えるでしょう。交わりの回復とはこのような隔ての壁を越えることです。そしてそれが世界中にある水不足の根本的な解決につながるのではないかと思います。水不足を地理的な問題に、小さくしてしまうのではなく、水が飲めずに苦しんでいる人々とつながり、その苦しみを知って何とかしたいと思う心によって渇いている人々の心を和らげることができると思います。

命の水によって活かされる

教会も「永遠の命に至る水」によって活かされています。一人ひとりが「今、あなたと話をしているこの私が救い主キリストである」と、今日も言ってくださるお方を信じ、そして神の民として祈りを合わせ、私たちにできることをおこなっていきたいと思います。