3月19日礼拝説教「水がめを運ぶ男」

聖書 エレミヤ書31章31節~34節、ルカによる福音書22章7節~13節

説教者 空閑厚憲牧師

22:7 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。
22:8 イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
22:9 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、
22:10 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、
22:11 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』
22:12 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
22:13 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

御言葉を取り次ぐ前に御一緒にお祈り下さい。

イエス・キリストの父なる神様、聖名を賛美いたします。御霊の導きによりそれぞれ一人びとりの旅路を無事に過ごす事が出来、本日からの一週間を、礼拝を以って始められます事を感謝致します。私共は日々の生活の、その現実の中で、平安を願っています。平和の中で暮らしたいと望んでいます。しかし、あなたの天地創造の御心に反して、私共は互いに境界線を引き合い、この世界に差別を作り出してきました。平和と豊かさを求める私共の歩みの影で、貧しさと不公平に苦しむ人々が必死に生きている事を忘れがちでありました。私共は知っているつもりでしたが知り得ていませんでした。私共の常識が通らない世界があることを、そして私共の価値観が通じない人々と私共は共に生きていく事を、です。

戦争を続ける国の為政者に、世界中の 平和を希望する人々の祈りを届けてください。

この切なる願いをイエス・キリストの御名により御前に御献げ致します。アーメ

イエス様の時代も現在も、ユダヤの人々が大切に守っている伝統的祭りである過越しの祭りを、イエス様御自身はどの様に過ごされたのでしょうか。

その昔、エジプトで奴隷状態だったイスラエルの民の先祖がそこから脱出した、いわゆる「出エジプト」を記念して祝うのが過越しの食事です。

私共にとりましても、先祖から受け継いで来ている「祭り」、即ち正月の祭りや春の田植え祭り、夏の盆祭り、秋の収穫の祭りなど、神道や仏教そして農耕文化の影響を受けて形成されている祭りがあります。

人間が生きて来た場にはそれぞれの「祭り」があると言えましょう。

ルカによる福音書22章に記されている過越しの食事の記事は、その様な土着の祭りの中で、イエス様の福音、救いはどの様に証しされているのか、という事を明らかにしてくれます。

この事はとりもなおさず、世界の各民族がその背景に持つ固有の歴史文化の中で「イエス様の救いのそれぞれの民族への血肉化」という事へ繋がって行きます。

全国の各地で礼拝を守っているそれぞれの教会が、地域社会の歴史や教会員それぞれの家族の歴史である家風の中で、キリスト者として、イエス様を受け入れ、讃美するとは、どういう事なのかという具体的問題提起ともなりましょう。

さてイエス様は8節で「行って、過越しの食事が出来るように準備しなさい」とペトロとヨハネに言われます。

彼らが、「どこに用意いたしましょうか」と主に尋ねている様子からも、弟子たちよりむしろイエス様のほうが、過越しの食事を守る事に対して積極的である事が分かります。

ルカによる福音書22章10,11節をお読みします。

「イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』」

と細かく指示しておられます。

当時水汲みは、女性の仕事でしたので、男性が水がめを運ぶ、という事は、先ずなかったそうであります。

エルサレムは、この時、過越しの祭りを祝うため、地方から多くの人々が出て来ており、人が溢れておりました。

なぜなら、過越しの食事はエルサレム神殿で屠った子羊を食する必要があったからです。

イエス様が、町のこの家の主人と予め打ち合わせておけば水がめを運ぶ男を目印にする事はあり得たでありましょう。

マタイ福音書によりますと、イエス様の御指示は、「…都のあの人のところに行ってこう言いなさい。」と事前に主人と打ち合わせをしていた様に記しています。

しかしルカによる福音書によりますと、イエス様は、奇跡的な力によりその男の事を予見してペトロ達に話されています。ルカはそれ以上詳しくはそれについて触れておりません。いずれにしましても、イエス様はその時間帯に、その男が、その場を通る事をご存知だったのです。

ここで私共は、エルサレムに入られる時、イエス様は二人の弟子を使いに出し、子ロバを引いてこさせた出来事を思い出すのではないでしょうか。あの時もだれも乗ったことのない子ろばの事を主は前もってご存知でした。しかしこの時も子ろばについてルカは何も記していません。(ルカによる福音書19章28節以降)

さてこの水がめを運んでいた男の人は、期せずしてイエス様と弟子たちが過越しの食事をする家へと、ペトロとヨハネを案内する事になりました。聖書では弟子たちは黙ってこの男の人の後をついて行った様に想像できます。

私共も、今日、正月休み、盆休み前後の宿泊施設や会食の場を確保するためには、随分前から予約が必要です。

同様に当時もユダヤの人々にとっての一大祭りの折に、急に会食の場所を探すのは容易ではなかったでありましょう。

しかしこの時、イエス様によってこの過越しの食事の場において、全く新しい救いの宣言がなされたのです。

イエス様は、出エジプトを記念する祭りの食事を全く新しくされたのです。これが、私共が現在恵まれている聖餐式の始まりであります。

ユダヤ教の過ぎ越しの祭りは、出エジプト記に記されています様に、いわゆる民族解放記念の祭りであります。

現在でも被植民地であった国々は、その植民地政策から解放された日を記念して、それぞれの記念日を持ち、祝っています。しかしエジプトから解放され、その後パレスティナに落ち着いたユダヤの人々は、今一度解放されねばならなかったのです。何からでしょうか。

それは、ユダヤの律法主義からの解放、更にローマからの解放、そして何よりも重要な解放は彼ら自身の罪からの解放でした。

旧約聖書エレミヤ書31章33節に次の様に記されています。

「しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。

即ち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

イスラエルの民がエジプト脱出の時、神と結んだいにしえの契約は石の板に刻まれておりました。

しかし新しい契約は胸の中に記されるというのです。

エレミヤの預言した新しい契約の完成のしるしがこの主の晩餐と言えましょう。そしてイエス様はこの時の主の晩餐を、「わたしの記念として、この様に行いなさい」と言われています。イエス様の記念であって、エジプト脱出の記念ではないのです。

それではどうしてわざわざ過越しの祭りに、今日の聖餐式の元となる主の晩餐を行う必要があったのでしょうか。

ユダヤ教とイエス様の救いとが、かえって混乱するのではないか、という思いもするかも知れません。

イエス様は同胞であるユダヤの人々を深く愛しておられました。イエス様の救いは、理論や学問ではありません。

ユダヤの人々の歴史や彼らの思いを共有され、彼らの日常の生活に即した救いを示して下さっているのです。

私共の日常生活にも、地域の祭りの行事や、亡くなった方々の法事などがあります。それらの行事をイエス様の救いに与った者は、どの様に受け取って行けば良いのでしょうか。

代表的な夏祭りの一つである京都の祇園祭のように、華やかで、賑やかな祭り行事の中に、私共は「本当に信頼できる方」を捜しながら生きている人間の姿を見る事が出来るのではないでしょうか。

イエス様と弟子達の最後の晩餐となったこの時、ユダヤはローマの占領下にありました。

当時のユダヤの人々は、古のエジプトからの解放を思い、又ローマからの解放を熱心に願った事でしょう。

しかしイエス様はその様な政治的、社会的変革だけでは人は救われない事を示そうとされたのではないでしょうか。人は律法により罪に定められる人生を負っており、その罪に定められる人生から解放されるのは、神の愛によってのみ可能である事をイエス様は身をもって示そうとされたのです。出エジプト記のキーワードは何かと考えてみますと、それはイスラエルの民の奴隷からの解放ということでしょう。

そして今日、私共も又何らかの意味で囚われ人ではないでしょうか。私共は、富や名誉や権力の奴隷、そして自己実現の奴隷など、何らかに囚われ、その中で苦しむのです。

イエス様の時代、エジプトからの解放を記念し、祝っていたユダヤの人々の内実は、再び新しい束縛に苦しんでいたのです。イエス様は正にこの束縛からの解放を完成しようとされているのです。

その意味で、この最後の晩餐と言われるこの出来事は、一人ユダヤ民族の解放に止まらず、人類全体に貫く自由への解放と言う救いの完成なのです。

ですから過越しの祭りは、人間の歴史と人間の魂の問題として、今も私共にまことの解放を訴えています。

イエス様は、過越しを記念する祭りの、本当の意味を知っておられました。

それは、人は何らかの奴隷であり、そこから解放される事なくしては、救いのない事を、です。そしてその救いは、人間自身では完成出来ないという事を、です。

そこでイエス様は過越しの食事の中で、これから起こる御自分の十字架と復活の出来事を暗示し、まことの救いを明確にされたのです。

その事は、ルカによる福音書22章19,20節に明らかにされております。19節20節をお読みします。

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

ここにおいて、この過越しの食事はイエス様によって、新しくされ、導かれるものとなりました。

即ち、イスラエルの民 救出の出来事から出発し、人類全体の救出を記念するものとされたのです。

地球上のどの民族も、その固有の建国の歴史を持っています。しかしユダヤ民族の歴史は、イエス・キリストをその歴史の中に与えられた時、単なる民族史の一つとしてではなく、私共一人一人の救いの出来事となりました。

私共の先祖が育んできた文化や、崇拝してきた神々の祭りも、イエス様の十字架と復活の光に照らされる時、イスラエルの民の出エジプトの祭りと同じ様に、どの民族にも共通する救いの祭りとなるのです。

過越しの祭りが、イスラエルの民のエジプト奴隷からの解放であるなら、私共の先祖から継承してきた祭りの多くは、祟りとか、怨念とかで表現される未だ見ぬ神への恐れがあります。それは、イエス様に救って頂く前の私共の姿でありましょう。そこには、人間からの恐れや願望に合わせる様に、次々に新しい神々が生まれては消えていきます。ですから、私共は、私共と人格的に交わって下さり、私共を内側から変革し始めて下さり、全く新しい価値観によって生かして下さるイエス・キリストを知らされた幸いを、聖餐毎に深く味わうのです。

一日も早く、一人でも多くの人々にこのイエス様の救いの出来事を伝え、まことの神信仰へ、共に歩みたいと願います。

さて、ペトロとヨハネが後をついて行った水がめを運んでいた人は、雑踏の中で目立っていました。しかし、それは素晴らしさで目立っていたのではありません。

先ほども触れましたが、当時 男性より下に見られていた女性のする水がめを運ぶ仕事をしている、という事で目立っていたのです。

しかし私はこの水がめを運ぶ人にあやかりたいと思うのです。彼は自分の意思や主義主張からイエス様の御用をしたのではないのです。知らぬ間に、イエス様が、水がめを運ぶという、世間的には軽蔑されていた彼の仕事を用いて、彼をご用に使ってくださったのです。

それはイエス様と弟子たちにとって、そしてそれ以後2000年のキリスト者にとって、最も大切な聖餐の場へと導く御用でありました。

優秀さや、強さ、美しさでしか主の御用が出来ないのなら、私共の出る幕は、誠に少ないものとなるでしょう。

実際私共は、イエス様の御言葉を頂きながら、又多くの信仰の先達や仲間を与えられていながら、失敗や恥かきの多い日を過ごしています。

しかしこの弱く、そして御言葉の真意を悟り難い者に目を留めて下さり、その劣っている所、愚かな所をそのままに、用いて下さるのです。

1年若しくは3年間イエス様と行動を共にしても、イザ自分の身に危険を感じると、人は皆自分が一番大事になる者なのでしょう。

しかしその不甲斐無い弟子達を前に、イエス様はパンとぶどう酒を分けて、きっぱりと言い置かれるのです。

「わたしの記念として、この様に行いなさい」と。

この後、皆逃げ去るという弟子たちの弱さを知っておられるからこそ、「この様に行いなさい」と主の晩餐を制定してくださったのです。

鶏が鳴くまでに、三度イエス様を知らないと言い放ったペトロが、声を上げて泣いて、自分の利己心や、不甲斐無さを嘆いたように、弟子たちが自分自身に愛想を尽かし、自己嫌悪に陥る事を分かっておられたからこそ、そんな時こそ、その自己嫌悪、自暴自棄の只中で、このわたしとの日々を思い出しなさい。そうすればきっとあなた達は、新しい生きる力を与えられる、と主は言われるのです。

それぞれの教会の歴史と私共一人びとりの信仰の道のりにも過ちや恐れや不安に揺れる時があります。

その様な時、イエス様の「わたしの記念として、この様に行いなさい」との御言葉に従い、パンと杯を頂くのです。この恵みを今再び深く感謝せずにおれません。

お祈り致します。

イエス・キリストの父なる神様、聖書に記されている水がめを運んでいた男の人は、主の晩餐の場へと弟子達を導きました。

私共も、礼拝を捧げるこの場へ、一人でも多くの近隣の方、親戚、友人を導く者として用いて下さい。この祈りを主イエス・キリストの聖名により御前に御献げ致します。アーメン