3月24日礼拝説教「ピラトという男」

聖書 イザヤ書50章4~9a節、マルコによる福音書15章1~39節

受難週の始まり

今日から受難週に入りました。教会暦では今日はイエス様がエルサレムにろばに乗って入城したことを思い、人々の歓迎とイエス様の思いの違いを思いめぐらせる日です。集会室の壁には松野万里子さんのお父さまの市川忠彦牧師の描いたエルサレム入城の油絵が飾られていますが、あのように歓迎したのでしょう。この1週間を、主の十字架への歩みを思いめぐらせ、その成し遂げられた業の意味をかみ締めて新たにされる時としたいと思います。週報裏面の『牧師室より』にこの1週間の毎日の聖書個所と黙想の手引きを記載しました。受難週の日々を祈りと黙想とによって過ごしていただければと思います。

ポンテオ・ピラトは有能なローマの高級官僚

本日、与えられた箇所はイエス様がローマ総督ポンテオ・ピラトによって尋問を受ける場面が描かれています。有名な箇所であります。毎年、この時期になると読まれる箇所ですので、ご存じの方が多いことだと思います。それでも新たに読み直し、その場に居合わせたかのようにこの個所を読むことによって新たにされることがあります。始めて礼拝に参加された方にもご理解いただけるようにお話しできればと思います。

そもそもイエス様が活動された当時のユダヤはどのようであったかと申しますと、強大なローマ帝国の属国となっていて、政治だけでなく文化面でもローマ化が推し進められていました。ポンテオ・ピラトはそのローマ帝国から派遣されたユダヤ総督でした。このユダヤはたびたび暴動が起きた地域で、ローマ帝国からすると統治するのが難しいところでした。そこに総督として派遣されたピラトはユダヤ人の心をつかみつつローマ化を推し進める有能な高級官僚でした。

ピラトの裁判

本日読まれたマルコによる福音書15章1~15節はイエス様がピラトの裁判を受ける場面です。ピラトはいろいろとイエス様を尋問しましたが、イエス様が尋問に答えられたのは1回だけでした。

2節 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。

ピラトの問いは「お前がユダヤ人の王なのか」というものでした。ローマ帝国にとっては属国ユダヤに王がいてはならないことでした。イエス様の答えは「それはあなたが言っていることです」というものでした。イエス様は質問を肯定も否定もしませんでした。そこでピラトは重ねて「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」と言ってイエス様を尋問しました(4節)。しかしイエス様はもはや何も答えられませんでした(5節)。ちょうど先ほど読まれたイザヤ書50章6節に預言されていた「打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」という言葉どおりのことが起きていました。

当時は年にひとり、ユダヤの最大の祭りである過越祭の前に死刑囚のうち人々が願い出る囚人を一人釈放していました。今で言えば恩赦にあたるものだったと考えられます。群衆は慣例に従って一人の囚人を赦免してほしいと願い出ました(8節)。

そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言いました(9節)。ピラトにしてみればイエス様を解放したかったのです。なぜならばピラトはイエス様を尋問して何の罪もないことを知っていたからでした。そして祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからでした(10節)。しかし祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動しました。彼らはユダヤの安息日や食物規定を守らないで社会秩序を破壊しようとする者を排除しようとしたのです。自分たちの都合の悪い者を排除するというのは罪以外の何ものでもありません。

ピラトは再度、「いったいどんな悪事を働いたというのか。」という言葉まで添えてユダヤ人たちにイエス様のことをどうしたいのか聞きました。これはピラトがイエス様に何の罪も見出せなかったことを示しています。

しかし群衆はイエス様を「十字架につけろ」と激しく叫びたてました。これには群集心理が働いていたと思われます。いったん祭司長たちが言った言葉が広まりそれが大勢を占めると、それを否定する声は小さくなり、全体が一つの方向にまとまっていきます。それが正しい判断かどうかの確認はどうでもよくなります。

一時期、ポストトゥルースの時代という言葉が流行しました。それは真実がどうであるかは二の次で自分や仲間の都合がよくなることを第一に主張している人々の声が広まり、人々がそれを真実と思うようになるといった時代を表現する言葉です。アメリカのトランプ氏が登場した頃にこの言葉が流行りました。そして今ではロシアのプーチン氏もこのような行動をするポストトゥルース時代の指導者ではないかと思われてなりません。

15節 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

ピラトはイエス様に罪がないことを知っていましたたが、ユダヤ人群衆が暴動を起こすことを恐れました。総督としてはローマ皇帝の期待に添うようにユダヤを統治することが第一でした。それが自分の地位を守ることになるからです。ピラトにもユダヤの指導者にも群衆にも罪がありました。

私たちに内在する罪

さて、私たちが自分のことを振り返るとき、ピラトや人々を批判することはできません。私たちも多少の差はあれ、自分の立場を守ることや群集心理に従うことを優先させているのではないかと反省させられます。真実を主張するよりも、自分の立場を優先させようとするのです。それは本能だと主張する人々がいるかもしれません。しかしそれは私たちに入り込んだ罪のせいなのです。

ピラトは決して2000年前に現れた特別な存在ではありません。いつの時代にも類似の権力者は現れる可能性があります。力のある者に迎合し、嘘を真実と言いくるめて一部の人の権益のために働くようになる危険性をいつも秘めています。気をつけないと教会もキリストの体であることを忘れてしまえば、このようになる危険性があるということを覚えていなければなりません。

保身と無償の愛

さて、ここで真実を隠すことが問題の本質なのかどうかを考えてみたいと思います。私は本日与えられた箇所を読んで黙想していて、子どもの頃に聞いた話を思い出しました。それはある子どもが他の子どもから「お前の父親は大酒飲みだ。」と言われた時に「大酒飲みなんかじゃない」と答えたというお話です。その子の父親は大酒のみだったのですが、その子にとって父親は優しくてとても大切な存在でした。父親が罵られることに我慢がならなかったのです。この子は父親について嘘を言いました。さてこの子は責められるべきでしょうか。この嘘はピラトのイエス様に対する十字架刑の宣告と同じように非難されることでしょうか。

私はこの時の先生の答えをおぼろげではありますが覚えています。その答えは、「この子の心の中では父親は酒を飲まずに自分たちを養ってくれる存在であった、だからこの子は事実とは違うことを言ったけれども嘘つきではない」というものでした。この子の父親に対する愛が他の子供から父親を守ろうとする言葉となって表れたのです。

ピラトは自分の保身のためにイエス様に十字架刑を言い渡しました。この子は父親に対する愛のために事実とは違うことを言いました。真実を言わないという点ではピラトとこの子とは同じですが、自分を愛するか他者を愛するかという点ではまったく違います。正反対と言っても良いと思います。

イエス様がピラトから「お前はユダヤ人の王なのか」と聞かれたとき、イエス様は「違います」と答えることができました。そう答えれば死刑を免れていたことでしょう。しかしそうは答えませんでした。しかもイエス様は嘘をつくことはありませんでした。イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と答えました。イエス様はユダヤ人のまことの王です。それはユダヤ人を越えて私たちすべての王です。この「まことの王」というのはイエス様の言葉で言えば「私たちの羊飼い」です。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる(ヨハネ10:11)」とイエス様が言われたような意味での「まことの王」です。イエス様は人間の罪を理解していました。その罪のために苦しんでいることも理解していました。だから人間のまことの王となられることをお引き受けになられたのです。イエス様は人間が作り上げた組織のトップとしての王ではありませんが、神から遣わされた「まことの王」です。

私たちはピラトの罪を自分の罪として認めることが求められています。そしてまたイエス様がまことの王であることを認めなければなりません。私たちを命を捨ててでも、保身のために真実を言わない人間のために十字架にお架かりになるイエス様です。罪もないのに死刑になる悔しさや罵られ辱められる恥を知っておられるイエス様がわたしたちのまことの王として守ってくださいます。

主イエスの苦しみの贖いによって悔い改へ

イエス様が苦しみを受けられたのは自分の保身を第一とする私たちのためです。イエス様は人々辱めを受け、死刑を宣告されても父なる神に信頼して黙ってご自分の使命を果たされました。正義を貫き、かつ人を愛すると約束された神の御旨を成し遂げられました。私たちはそのイエス様の贖いに感謝して自分の罪を認めなければなりません。