12月31日礼拝説教「シメオン」

聖書 イザヤ書61章10~11節、ルカによる福音書2章22~35節

今年を振り返って

今年も今日で最後となりました。今年は新型コロナウイルス感染の影響が減って、少しづつコロナ前の状態に戻ることができたことは良かったと思います。しかしヨーロッパや中東で起きている武力衝突のために多くの人が死に、傷つき、苦しむのを目にしなければなりませんでした。この衝突は今も続いていて私たちの心を憂鬱にさせます。そしてその影響は色々なモノの値段が上がるという形で私たちの日常生活にも及んでいます。私たちは一日も早い紛争終結のために声をあげ続け、支援していかなければならないと思います。

教会で私たちは礼拝を中心とした信仰生活を継続しました。継続と言ってもお一人おひとりにはいろいろな変化があったわけで、その変化の中で今年も礼拝に集うことができたことは神さまの導きがあったからこそであるということを覚えて感謝したいと思います。

シメオンが見た救い

先週はクリスマス礼拝と燭火礼拝に多くの方が参加しました。ミニコンサート、ミニバザー、讃美歌を歌いまショウに教会員以外の方が参加してくださいました。教会の内外にイエス様の誕生をお祝いする装飾が飾られ、参加された皆さんに希望の光を感じていただけたのではないかと思います。イエス様の福音が多くの方に届いたのではないかと思い神さまに感謝しています。

教会では1月6日(土)の公現日までクリスマスをお祝いしますので、今日の年末礼拝でも私たちはイエス様の誕生に関わる聖書個所を聞きました。このことを通して私たちに与えられる神の言葉を聞きたいと思います。

22、23節『さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。』

イエス様がお生まれになった後、律法に規定されている清めの期間が終わると、マリアとヨセフはイエス様を連れてベツレヘムからエルサレムに行きました。イエス様を神さまに献げるためでした。神さまにささげた赤ちゃんは神さまのものになり、両親は神さまからその子を預かって神さまの御用を果たせる人になるよう育てるのです。その時点から子どもは神さまのものですから、自分の型にはめるように育てるのではなく、神さまに問いかけながら子供をそだてようとするでしょう。ヨセフとマリアはそのような思いで、律法の規定通りイエス様を神殿に連れていきささげようとしていました。

24節「また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」

二人が用意しようとしていたのは山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽でした。この献げ物が意味しているのは、二人は貧しかったということです。律法には「一歳の雄羊一匹と家鳩または山鳩一羽を献げ物とするように、しかし貧しくてそれを用意できないときは二羽の山鳩または二羽の家鳩でも良い」(レビ12:6、8)と書かれています。貧しさはイエス様を知るためのしるしです。イエス様が生まれた時の様子も貧しさにあふれています。今もまた両親の貧しさを通してイエス様の貧しさが示されています。

25、26節『そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。』

シメオンという名は古代イスラエル王国を形成した12部族のひとつの名前です。彼は祭司でイスラエル、すなわちユダヤの民がまことの神の民となるのを待ち望んでいました。彼にはひとつの大きな使命が与えられていました。それは「メシアに会う」という使命です。メシアは救い主、すなわちキリストのことです。キリストが世に来るということは旧約聖書、その中でも特にイザヤ書に預言されていました。イザヤ書61章にその預言があります。本日は10節と11節が読まれましたが、その前の1節には次の言葉が記されています。

『主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。』(イザ61:1)

そして先ほど読まれた10節には次の言葉が記されています。

『主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。』(イザ61:10b)

『「わたし」は神である主から油を注がれ、救いの衣を着せてもらった』、と書かれています。ここに記されている「わたし」が救い主です。シメオンはその救い主キリスト、すなわちメシアを人々の中から見出す使命を与えられたのです。

27節 『シメオンが霊に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。』

ある日のことシメオンが神殿の境内に入ってきました。その時、イエス様を腕に抱いたマリアとヨセフもまた神殿に来ました。私たちからすればこれは偶然の出会いです。しかしこの出会いは神が導かれたものであったことは、「聖霊に導かれて」という言葉でわかります。シメオンは使命を受けてから、おそらく何年も毎日待ち続けていたことでしょう。その時がいつ来るかはシメオンには示されていませんでした。そしてその出会いの時は突然訪れたのです。

28節 『シメオンは幼子を腕に抱き』

シメオンはマリアとヨセフの子が救い主であることを認めました。そこには大勢の人がいたはずですが、シメオン以外にこのことを知る人はいませんでした。シメオンにはどのようなしるしが与えられていたでしょうか。聖書にはそのことは書かれていませんから、これは聖霊の導きとして、すなわち神の秘密として私たちが受け取るべきものだと思います。ただ私は、シメオンはキリスト預言であるイザヤ書をしるしとしていたのではないかと思うのです。イザヤ書58章には貧しい者への神の眼差しが示されています。またイザヤ書61章には貧しい者への福音が語られています。その貧しい人の中の最も貧しい姿になられたイエス様をシメオンは目にしたということではないだろうかと思うのです。

シメオンは非常に喜びました。その喜びははしゃぎまわるような喜びではなく、感動に胸が震えて涙するような喜びであっったでしょう。彼は聖霊のお告げのとおりに救いを見て、その子を腕に抱きました。

28~30節 『神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

彼は神を賛美しました。まず、彼自身が神の救いを見たことを感謝しました。彼は聖霊の言葉を信じて、その言葉に堅く立っていたことがわかります。シメオンは毎日、救い主が現れない空しい日々を送りながらも、必ず救い主は自分の前に現れるということを信じていました。

ここにも「お言葉通り」という言葉があります。この言葉は天使ガブリエルがマリアに「神にできないことは何一つない。」と告げ、マリアが「お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えた、その「お言葉」と同じです。主の言葉は実現するということをシメオンも告白しています。彼は御言葉に固く立っていました。ここに忍耐があります。忍耐とは我慢することではありません。御言葉を信じ、それが実現することを祈りつつ日々を送るということです。

31~35節 『これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」』

「誉れ」という言葉は「栄光」のことです。シメオンはイエス様によって栄光が現れることを預言しました。しかしそれは人間的にはとても考えられない栄光です。救いをもたらすイエス様が人々の反対を受けるしるしとなられるということです。このようなことによって私たちに救いがもたらされるということを理解することは難しいことです。さらにそれを受け入れることはもっと困難です。しかしこれが神さまの用意された救いの道なのです。

全ての民のための救い

イエス様は救いです。その救いはすべての民のためです。アジア人もアフリカ人も日本人もこの救いにあずかることができます。

シメオンが示した栄光は人間的には無残なものです。十字架にかけられるイエス様に栄光のかけらも見ることができません。しかしその無残な出来事を通して、イエス様の言葉やその業が人々の心に突き刺さります。そうなれば悔い改めて神に帰る道を選ぶしかなくなります。これが神の用意された救いの道なのです。

救いの業が起こされる教会

私たちの教会は来年(2024年度)、創立40年を迎えます。そしてこの40年の間には苦しい時期もありました。しかし私たちの苦しさとは関係なく、この教会で神の救いの業が起き続けてきたことを思い起こしたいと思います。今年も私たちは神の栄光を目にしました。シメオンが「イスラエルの誉れ」と告げた神の栄光が私たちの教会にも現れています。

私は本日の御言葉を黙想していてある幻を与えられました。それは、人々が磁石に引き付けられるように福音を聞きに集まってくるという幻です。それは周りの人々に教会に来てもらうように呼び掛けるというよりは、神の国がここに現れているような無償の愛の交わりがここに実現しているような状態です。もちろん周りの人々を誘うことなくして教会を知ってもらうことはできませんが、教会に来てくださった方が、「ああ、ここには暖かな交わりがある」とか「ああ、ここで私は安らぐことができる」と思えるような暖かな交わりがあれば、続けて来て下さるでしょう。いや、きっと来ます。それこそシメオンのように御言葉にしっかり立つことが肝心なことです。「私たちは神の名によって集まり、ここで神さまからエネルギーを注入してもらって、一緒にこの世の旅路を進んでいる。それは安らぎの日々であり、喜びの日々だ。」ということが伝わるならば、周りの人々は憧れを持つに違いありません。

教会はシメオンの預言のとおり、多くの人々の倒れと立ち上がりへと定められています。つまり人々を悔い改めさせて神に帰らせる力にあふれています。私たちに力があるのではなく、聖書の御言葉が語られているところで、神の栄光が現れ、それが起きるのです。

御言葉に立ち続けよう

シメオンの働きは救いを指し示すことでした。イエス様ご自身が救いです。私たちの働きもシメオンと同じです。私たちはイエス様を見ることはできませんが、イエス様を見た人たちの証言に触れて、更に聖書の御言葉によってイエス様に出会うことができます。そしてイエス様によって新しく生きる道、救いの道へ歩み出すことができます。救い主がこの教会に、そして私たちの間におられることを私たちの存在によって指し示すことができます。シメオンに示された「救い主を見るまで、あなたは死ぬことはない」という言葉に匹敵する言葉を私たちも受けています。その言葉に堅く立って、神の言葉が実現することを祈りつつ、来年も充実した日々を送りたいと思います。神さまを賛美しながら、御言葉に従って生きていく喜びを共にしていきたいと思います。

アーメン